BLOOD-PASS
チェ・グソンは、とっさに路地裏に飛び込んだ勢いのまま地面を転がった。胸に冷たい激痛が走り、そこからジュゥと血の匂いが混じった蒸気が立ちのぼっていた。傷口に指を突っ込み、体内から《《カプセル》》を抉り出すが、銀の被覆は潰れ、透明な液体が漏れていた。カプセルをつまんだ指先が、液体に触れて灰となって崩れ落ちた。
〝――ちくしょう、しくじった〟
グソンは舌打ちし、壁を背に座り込んだ。
路地に差し込む月明かりの下を、複数の影が走っていた。見つかるのは時間の問題だが、いずれにせよ死は免れない。グソンは目を閉じて、その時を待った。足音がゆっくりと近づいてくる。
「満月の夜は、吸血鬼の力が弱まり、狼男の力が増すらしい」
詩を諳んじるような調子で、悠々と現れた青年を見上げたとき、グソンは、その男と月の見分けがつかなかった。光を反射する銀髪と白い顔貌が夜闇の中で鮮烈に目立っていた。
〝こいつは人間なのか?〟皮肉な疑問が、グソンの頭に浮かんだ。
「日光に弱く、十字架を忌避し、流水を渡れず、鏡に映らない――伝承の多さは恐怖の証だ。安全に縋りたい人間が逸話を作る。銀の弾丸
なんて名付けたのもあやかってのことだろう」
得体の知れない青年は、神が作ったような顔立ちに微笑を浮かべながら、グソンの前で膝をついた。
「《《それ》》に撃たれてまだ生きているとは、君はよほど高位の吸血鬼なんだろうね」
青年は、生白い手首を差し出して、言った。
「僕の血を飲むといい」
グソンは、信じられないものを見る目で青年を見た。
「《《感染者》》になりたいと?」
「いや。君が必要としているかと思ってね」
「……酔狂は結構ですが、無駄なことです」グソンの片腕が、肩から外れて崩れ落ちた。「《《血清》》を打たれた感染者は再生できずに崩壊していく。貴方もご存知でしょう」
「なら、最後の晩餐にするのはどうかな」
「あいにく味にはうるさいもんでね」
グソンがぴしゃりと言葉を返すと、青年はシャツの胸ポケットから折りたたみ式の剃刀を取り出し、なめらかに研がれた刃を開いた。
まさか、と思った瞬間には、青年は、躊躇もなく刃を引いていた。
血管が切り裂かれ、血が溢れ出すと同時に、濃厚な芳香がグソンの鼻腔を侵した。喉の奥からうなり声が漏れた。何週間も空腹を耐え忍んでいたときでさえ、こんなに渇望を覚えたことはなかった。
グソンは青年の手首に噛みついた。次の瞬間、激しい動悸とともに、全身がカッと燃え盛るように《《漲った》》。欠け落ちた身体が瞬く間に再生していく。まるで強烈なアルコールを一気に飲み干したかのように、クラクラと頭が揺さぶられ、内側からこみあげる疼きに身震いする。《《これは劇薬だ》》脳が警鐘を激しく鳴らす。代償なしに得られる代物ではない、と。
「あまり飲みすぎないことだ。永遠を失いたくないのであれば、だが」
青年が面白がるように言った、その時、《《猟犬》》が姿を現した。厚生省公安局刑事課二係――感染関連犯罪を担当する――監視官と組んだペアの執行官が、「何だこいつは!」と青年にドミネーターを向けた。
〈犯罪係数、五〇未満。執行対象ではありません。トリガーをロックします〉
「はっ?」執行官が間の抜けた声を上げた。
「貴方は――」「僕のことを気にしている場合か?」青年がグソンの言葉をさえぎる。
〈犯罪係数、三〇〇以上。感染個体です。執行モード――ステラライズ。インジェクター。血清を装填しました。対象を除染してください〉
バチッという放電音の直後、グソンに向かって銀の弾丸が放たれた。だが闇に光る眼はその弾道を正確に捉えていた。
「狙撃しなければ無理だ――」
叫び声を背に、グソンは青年を抱えて路地の闇の奥へと消えた。
廃棄区画の最深部。月の光さえ届かないほど隔絶された世界の片隅、古びたワンルームのアパルトメントが、グソンの棲家だった。
メタンガスランプを点け、淀んだ空気を換気するために窓に手をかける。空が白みはじめていた。ガタつき半分しか開かない隙間から冷たく湿った外気が入り、頬を撫でる。
〝さて、どうしたものか〟グソンはとっさに連れてきてしまった青年の扱いに悩まされていた。
見れば見るほど、異質な男だった。カバーが破れて金具が露出したソファも、彼が座ればさながら希少な骨董品のような趣きだ。最初からそこが定位置であったかのように落ち着き払っている。《《普通の人間》》は感染者を恐れるものだが、何の脅威とも思っていない態度だ。単に愚かで無謀な人間というわけでもなく、気を抜けばこちらが喰われそうな血の気を隠している。
「貴方は何者ですか」
グソンは冷たい窓枠に背を預けながら、たずねた。
「僕は槙島聖護」と、青年――槙島が微笑む。
「名前を聞いたわけではありませんよ」
「呼び名がないと不便だろ、ドラキュラ伯爵。ワラキア公のほうがいいかな?」
グソンは、深いため息の末に名乗った。「……チェ・グソンです」
「よろしく、チェ・グソン。君とは仲良くなれそうだ」
槙島が立ち上がり手を差し伸べる。しかしグソンはその手を無視した。
「さようですか。俺は素性の知れない相手を隣人として歓迎する気にはなれませんがね」
「命の恩人とは思ってくれないのか?」槙島は冷ややかな態度にも気分を害した様子はなく、好奇心に満ちた眼差しでグソンを見つめた。その金の瞳は、心の奥底まで見透かすような居心地の悪さを感じさせた。
「それがいちばん不気味なんですよ」グソンは目を逸らし、腕組みしながら言った。「俺を助けて貴方に何の得が? そもそも、なぜ貴方の血で《《血清》》が無効化される?」
「僕の血は吸血鬼を人間に変えるんだ」槙島は、グソンが口元を確認したのを見て笑い、「少量なら問題ないよ」と付け加えた。
「《《血清》》は、僕のような特異体質の人間の血から作られる。吸血鬼の細胞を破壊する性質を利用し、その身を滅ぼす毒物として生み出されたのが《《銀の弾丸》》だ。君は僕の血を飲んだことで細胞が一時的に人間に近くなり、《《血清》》を逆に無効化した」
「……なるほど。理屈はわかりました。それで、貴方の目的は?」
「その前に、僕からもひとつ聞いてもいいかな」
「……どうぞ」
「君は何の目的があって生きている?」
「なにも。生きる目的なんてある方が少数派でしょう」
「だろうね。ただ――僕の見るかぎりでは、君は目的を探しているように見える」
「俺が?」グソンは嘲笑を浮かべた。
槙島の語りかけは耳に心地よく響いた。だからこそグソンの疑心をいっそう強く煽った。その言葉遣いや声の抑揚、非の打ち所がない容姿と優雅な振る舞いは、自信に満ちあふれ、他者を思いどおりに操る力を持っていた。
槙島は、警戒を解かないグソンに、ますます興味を抱くように言葉を重ねる。
「日の当たる場所で生きたいとは思わないのか?」
「好きなだけ腹を満たしたいとは思いますねぇ」グソンは皮肉っぽく口角をつり上げた。「噂で聞いたことがありましたよ。ひとたび口にすれば、他の血は水で薄めたワインのように味気なくなるが、飲みすぎれば毒となる《《聖餐》》が存在すると。実在するとは思いませんでしたが」
隙間風のようなかすかな空気の流れが銀髪を揺らし、絹のように軟らかく首筋に沿って垂れ下がる。槙島はグソンを挑発するように笑み、首を傾げた。
「《《聖餐》》か。君たちにとって、人間はただの餌か?」
「そう見なしてるやつは多いでしょうね」
「君は?」
グソンは答えなかった。
槙島は追及せずに微笑を深めた。まるで、その態度こそが答えだとでも言うように。
「君の力があれば、吸血鬼たちの勢力はもっと勢いを増していたはずだ。しかしどうやら君は仲間のためにその力を振るう気はないらしい。そのせいかな――同胞に裏切られたのは」
「裏切られたといえるほどの関係ではありませんがね」
「どちらにせよ、君は孤独だ」
グソンは視線を上げた。目は口ほどに物を言うというのが真実ならば、その言葉はまるで槙島自身に投げかけられているようだった。
「偶然、君が《《食事》》をしているところを見かけたんだ。あんな方法を選ぶとは、よほど飢えていたんだろうね。それほどまでに耐えるのは、人を傷つけたくないからなのか? 違うな。それなら《《自主収容》》を選ぶはずだ。君に理由を問いたくて追いかけていた最中に狙撃されていたから、助けた」グソンが黙っていると槙島は「まだ納得できないかい?」と苦笑いして続けた。「君を助けることは、僕にとって大したリスクじゃない。体質のおかげで噛まれても《《感染》》しないし、《《捕食》》すれば危うくなるのは君だからね」
「運が良かっただけでしょう。食後でなければ吸い殺していたかもしれませんよ」グソンは《《味》》を思い出し、無意識に牙を舐めた。
「なぜ人を襲わない? 少なくとも事故死体の血が好みってわけじゃなさそうだ」
「ただの保身ですよ。噛めば吸血罪ですし、殺せば吸血致死罪、感染させれば感染拡散罪。法は形骸化しているとはいえ、痕跡を残すほど公安に目をつけられるリスクが大きくなる」
いわゆる吸血鬼は、吸血性変異症として指定感染症に分類されている。厚生省
は、あらゆる吸血行為を犯罪と定義し、《感染者》》を徹底的に管理し隔離する仕組みを作った。これに従わなければ当然、犯罪係数が上がりやすくなり、規定値を超えれば問答無用で《《除染》》される。
〝最初から選択権はない〟とグソンは自嘲する。自主的に収容されるのは感染《《させられた》》者であり、みずから感染者になった場合は、すでに色相が《《汚染》》されている。グソンは不法入国者でその前から感染していたが、仮に正規入国で未感染であったとしても、ろくに金もない移民がこの社会で生きていくなら、感染するほうがマシだ。
「君たちは思考し、対話可能で、人間とほとんど変わらないのに最低限の食事すら禁じられる」槙島が不愉快さを滲ませた声音で語る。「生存権を得るためには《《収容》》され、《《同化》》するまで治療を受けなければならない。さもなくば殺される。どちらの場合でも、この血を使ってね。この社会の在り方は異常だよ」
「まあ貴方のような特異体質の苦労は想像に難くありませんね」
その血が感染者を殺す毒となるなら、表向きは重宝されても、実質的には隔離されていてもおかしくはない。厚生省
の理念は、最大多数の最大幸福という功利主義だ。感染者が特異体質者を攫うか、今の槙島のように自ら協力すれば、血清はほとんど意味を持たなくなる。
「貴方の目的は復讐ですか? 感染者に協力して社会をひっくり返したいとか?」
グソンが言うと、槙島は「そんな単純な人間に見えるかい?」と笑い混じりに言った。
「シビュラが作ったルールを壊したいのは事実だが、別に復讐したいわけでも、吸血鬼のための世界を作ろうとしてるわけでもない。ただ、区別するのがおかしいと思っているだけだ」
〝区別するのがおかしい?〟グソンは槙島の言葉が理解できなかった。「まさか共存するべきだと?」
「共存せざるを得ない、という考えに近いかな。君たちは人間がいなければ身体を維持できないだろ」
グソンは「あり得ません」と否定した。感染者は人の血以外でエネルギー代謝することができない。だからこそ共存は不可能だ。
「人間側にメリットがないでしょう。シビュラのやり方のほうが合理的です。噛めば必ず感染するわけではないとはいえ、感染者が増えすぎれば指数関数的に増加し手に負えなくなることは明白だ。貴方のような特異体質もそう多くはないでしょうし、人間に戻すのにどれくらいの血量が必要なのかは知らないが、間に合わないことだけはわかる。感染者だけになれば共食いしあって終わりだ。管理するか殺さなければ何もかもがいつか破綻するんですよ」
「仮にそうなったとして、わざわざ人間に戻さなくとも、特異体質者の血なら少量を摂取するだけでかなりの期間を生存できるはずだ。数は減るかもしれないが絶滅はしないだろう。問題はないと思うけど」
事もなげな顔で言い放った槙島にグソンは絶句した。
「……正気ですか? 感染者を生かすためにその血を捧げると?」
「僕ではなく社会が狂っているだけだ。吸血鬼を殺し尽くすために血を捧げるよりは、よほど健全だと思うがね」
槙島の語る言葉は常軌を逸していた。グソンは《《渇き》》を覚え、唾を飲み込んだ。興奮と吸血衝動は非常に似通っていた。
「誤解してほしくないんだが、僕は別に、救済や破壊そのものに興味があるわけじゃない。だから人も吸血鬼も滅びたとしても構わない。少なくとも今よりは公平だ」
槙島が欲望を見透すかのように近づいた。
グソンは槙島の頸動脈が、皮膚の下で脈打っているのを見透かした。
「……面白い」と、感情が口をついて出てきた。槙島には危険な魅力がある。その血が持つ毒性のように破滅的で抗いがたい魔性だ。
「貴方の高尚な思想については理解できませんが、その過程と結果には興味があります。協力すると言ったら、どんな対価をいただけますか? 《《槙島の旦那》》」
グソンは、手を差し伸べた。
「僕の血だ」槙島も手を伸ばす。「好きなだけ空腹を満たすといい、チェ・グソン」
グソンは槙島の白い手首をつかみ、引き寄せた。
槙島のセーフハウスで同居するようになってから数ヶ月が経つ。グソンは三人がけのやわらかいソファに座り、手元の携帯端末に意識を沈めようと努力していた。だが、ディスプレイにならぶ文字列は、意味のある情報として脳に届く前に霧散していく。
理由はわかっていた。隣からひびく紙のページをめくる乾いた音。それが数分おきに訪れるたびに、グソンの喉の奥がざらついた。
〝まだ早い〟
携帯端末の時刻が分を刻む。グソンは目を瞑った。
これは生存維持のための作業であり、スケジュール管理された摂取にすぎない。槙島の血は不死の肉体を維持するための燃料だ。過剰摂取して《《力》》を失えば計画
が破綻する。槙島の身体にも害がある。
自分に言い聞かせながら、グソンは目を開けた。あと一分だった。
槙島が、本を読みながら、疲れをほぐすように首をゆっくりと回した。銀髪が滑り落ち、シャツの襟元から覗く白い首筋をなぞる。
ドクン、という頸動脈の微かな拍動が、幻覚のようにグソンの網膜に焼き付いた。あの芳香。あの《《劇薬》》の味。死の淵で味わった最初の晩餐。記憶をよみがえらせた牙の根が疼き、ゆっくりと伸びて唇から飛び出した。
限界だった。グソンは端末を操作し、残り三十秒で鳴るアラームを解除した。
グソンは立ち上がり、あえてソファの背もたれを挟んで槙島の背後に立った。槙島は本から目を離さずに呟いた。「……もうそんな時間か」
グソンは返事をせず、背もたれに左手をついた。右手で槙島の髪をやさしく払い、生白い首筋を露出させる。ゆっくりと鼻を近づけると、槙島の清涼な体臭が鼻腔を通った。次に、彼の頸動脈が脈打つたび、血の芳香がかすかに拡散するのを感じた。
〝理性を保て〟グソンは最後の抵抗を試みた。〝これはただの作業だ。摂取だ〟
たまらない香りの首筋に鼻を押し付け、深く息を吸い込む。まだ一滴も口にしていないうちから身体が熱を持ち始める。牙が限界まで伸び、痛いほどだった。感覚が敏感な先端で皮膚をなぞり、穿つ場所を探りあてる。動脈に牙を立てる寸前、槙島が微かに息を詰めた。
「ッ…………く」
喉の震えに構わず牙を突き立てる。皮膚をプツッと突き破り、血管を捉えた瞬間、あの聖餐が牙の中に流れ込んできた。
全身の細胞が歓喜の叫びを上げる。脳が、強烈なアルコールに焼かれたように痺れ、思考が快楽の色に染まっていく。
〝――止まらねぇ……〟グソンは恍惚と牙を埋めた。
牙が生温かい血を吸い上げるたび、下肢の中心が脈打つ。
槙島の手が、読んでいた本のページを、ゆっくりと握りしめた。
「……は、……」耳元に聞こえる彼の息が、熱を帯びて乱れている。
〝気づいている〟グソンは、熱に浮かされた頭で理解していた。〝この男は、俺の渇望も、欲情も、すべて気づいている。それどころか、この男自身も、この行為に微かな興奮を覚えている〟
その事実が理性のタガを揺さぶる。人間に同化しないうちに、槙島への負担を最小限に、という建前が、欲望の奔流に押し流されそうになる。
グソンは、名残惜しさを振り切るように、乱暴に牙を引き抜いた。
ぜえ、と荒い息が漏れる。槙島の首筋に残った牙の痕から、血が一筋垂れた。グソンはそれをねっとりと舌で舐めとった。
「……ごちそうさまです、旦那」
吸血前よりも渇いてかすれた声が出た。まるで、絶頂寸前に引き抜くことを義務付けられたセックスだ。牙がまだどくどくと疼いたまま、引っ込む気配がない。最後まで味わうことができないなら、せめて、この熱の余韻を種として吐き出したくなる。
グソンはソファの背もたれに額を押し付け、荒い息を整えた。体の芯が痺れ、欲望の残滓がまだ脈打っている。こちらはこちらで処理しなければならない。きびすを返そうとしたその時、
「チェ・グソン」と槙島が沈黙を破った。
「なぜ、そうまでして我慢する必要がある?」
槙島は、握りしめていた本から手を離し、ゆっくりとソファの上で向き直った。彼は指先で首筋をなぞり、血と唾液が混じり合ってぬらりと濡れた傷を強調する。
金の瞳が、グソンが口を開くよりも先に、心の奥底を覗こうとしている。その存在の《《本質》》を見透かそうとしている。
「……何が言いたいんですか、旦那」グソンは、わざと皮肉っぽい口調で応じるしかなかった。「摂取量は決めている。貴方の身体にも負担がある」
「僕の心配か」槙島は愉快そうに笑った。「それとも――君自身の理性の心配かな?」
図星だった。
グソンは、突き刺さるような槙島の視線から逃れるように目を伏せた。ソファの背もたれを掴む手に、無意識に力がこもる。
〝理性の心配? 当たり前だ〟
この男の血は、ただの栄養源ではない。それは劇薬であり、脳髄を焼き切るほどの快楽を伴う毒だ。
そして、グソンが本当に恐れているのは、その快楽に溺れることではなかった。
この快楽は、槙島聖護という個人と不可分に結びついている。
この血を渇望することは、この男を渇望することだ。この男の体温、匂い、そして今も自分を見つめているであろう金の瞳――そのすべてに執着することだ。
利害関係であるべきだ。槙島はグソンの力を、グソンは槙島の血を利用する。それが交わした契約。その均衡が、グソンにとっての安全圏だった。
だが、槙島という男は、その安全圏に土足で踏み込んでくる。まるで、グソンが必死で築いた理性の壁を、面白がって崩そうとするかのように。一線を引こうとするグソンの態度を、すべて見透かした上で、あえて距離を詰めてくる。
もし、この男に、人間的な――あるいは、それ以上の――個人的な感情を抱いてしまったら、その時点でこの歪な共生関係は破綻する。
グソンは保身のために生きてきた。人間社会からは穢れとして排斥され、コミュニティからは消極的だと疎外された。どちらにも属せない彼にとって、生き延びる唯一の方法は、誰にも帰属しないこと、誰にも執着しないことだった。利害で結ばれる関係だけが安全圏だ。信用も親しみも必要がない。その限りにおいて対等でいられる。
何かに執着することは、弱みを差し出すことだ。この槙島聖護という、底知れない男の前で、それがいかに致命的なことか、グソンは本能で理解していた。
この男に執着という弱みを握られた瞬間、グソンは協力者から、生殺与奪の権を握られた依存者に堕ちるだろう。
「心配にもなりますよ、貴方の血は甘すぎる」
グソンは背もたれから身体を起こした。まだ熱の残る牙を無理やり唇の内側に隠し、飄々とした皮肉屋の態度で武装する。
「計画に必要な分はいただきました。それ以上は無駄なリスクです」
グソンは、まだ自分を射抜くように見つめる槙島の視線を振り切り、部屋を出ていこうと足を踏み出した。
「そうかな」
背後から、楽しそうな声が追ってきた。
「君が無駄だと思おうとしているものこそが、人間を人間たらしめる――あるいは、君を君たらしめる本質だとは思わないか?」
「……旦那」グソンは笑みを貼り付けて振り返った。「そんなに俺の牙が欲しいのですか?」
槙島の金の瞳が、愉悦に細められた。
グソンは今、自らの牙を――その吸血鬼としての本質、抑えがたい欲望の象徴を、あえて剥き出しにして反撃してみせた。
「……いいね」槙島は喉の奥で笑った。「欲しいと言ったら、君はどうするんだ?」
グソンは一歩、槙島に近づいた。ソファに座る槙島を見下ろす。もう牙を隠そうとはしなかった。
この男に執着することを恐れていた。それは、グソンだけが渇望し、溺れる、一方的な依存になることへの恐怖からだ。グソンが牙を立てる側で、槙島が血を与える側、その構図である限り、グソンは槙島なしでは生きられない弱者であり、槙島はグソンを生かす強者だ。
だが、もし。槙島がこの《《牙》》そのものを、その牙による快楽を求めるというのなら。血を与えるという支配的な行為ではなく、牙を立てられるという被虐的な快楽を望むというのなら。
その瞬間、立場は逆転する。
これは、グソンにとっての最大の賭けだった。歪な利害関係を、対等な性愛へと引きずり込むための。
「貴方が俺の牙を求めるのなら、話は別です」
グソンは、槙島の耳元で囁いた。
「摂取や作業じゃない」
グソンは、牙を見せつけるように、あえて舌なめずりをした。
「貴方が俺の《《牙》》を、行為を快楽として求めるのなら。俺は貴方が望むままに与えますよ」
槙島は、首筋の生々しい傷痕に再び指を触れさせた。その金の瞳は、グソンの剥き出しの本質と、その裏にある戦略を、すべて見透かしているかのようだった。
「……なるほど。僕の欲望が、君の理性の免罪符になるというわけか」
槙島は、グソンとの距離がゼロになるまで顔を寄せた。渇いた唇に吐息がかかる。
「――欲しいな。君の、その《《牙》》」
その声は、悪魔の囁きのように甘かった。
頭が一瞬、白く痺れた。グソンは背もたれを乗り越え、槙島をソファに組み敷いた。
《《欲しい》》というその言葉が、グソンという存在の本質を暴くための罠か、それとも、この男自身の隠しきれない欲望の告白か。どちらでもよかった。計画も槙島への負担もどうでもよかった。
獲物に飛びかかる獣のように、槙島の唇を牙で裂く勢いで塞ぎながら、そのからだに乗り上がる。槙島の清廉な白いシャツのボタンを片手で外していく。何にも侵されていないまっさらな肌が支配欲を煽る。
グソンは、槙島の首筋、鎖骨、胸へと唇をすべらせていった。牙の先端がかすめる刺激に、槙島が熱い息を漏らす。淡い桃色の乳頭がピンと角立ち、その快楽が嘘ではないことを示していた。焦らすように息を吹きかけると、槙島が抗議するようにグソンの髪をつかんだ。
「焦らされるのはお嫌いですか?」
「は……ッ、ん、……っ」
舌先が触れた瞬間、槙島の背が反り、胸の突起がより強調された。突き出された尖りに吸いつきながら、背筋を指でなぞると、髪を引っ張られる甘美な痛みが走った。
〝この男に、刻み込めばいい。俺がこの血を渇望するように、この牙の《《中毒》》にさせてやる〟
たがいに貪り合う獣の領域へ引きずり込む。それが、この底知れない男と対等になる唯一の方法だ。
これは食事ではない。《《調教》》だ。
グソンは、下半身に手を伸ばし、痛いほど張り詰めた自らの昂りを解放した。その衝動をなだめるように軽く撫でながら、槙島の肌を舐る。牙を立てずに吸いつくたび、ピクッと震える。牙を立てればその予感に息を詰める。
吸血はされる側にも性的興奮や快感をもたらす作用がある。しかし槙島に対する場合、摂取量を制限しなければならない都合上、その効果は限定的だ。より強い快感を刻むなら、相乗効果が必要になる。たとえば、快楽の頂点に至ったときに吸血すれば、その身体はふたつの快楽を結びつけ、どちらか一方では満たされなくなるほどの恍惚とした瞬間を得られる。それはグソン自身にも作用するため諸刃の剣でもあるが――。
「ん……っ、……ふ……っ」
槙島の腰がビクンと跳ねた。グソンの手が布越しに槙島の昂りに触れていた。くっきりと浮き出た硬い輪郭をさするように撫でると、脈打つ感覚までが伝わってくる。
「俺に吸血された後は、いつもこうなっていたんですか?」グソンは口角をつりあげながら、布越しに亀頭部をさわさわとくすぐってやった。
「ぁ……っ、そう、だ。君と、同じようにね」
「へぇ。俺と同じ、ですか」
グソンは陰茎の輪郭をぎゅっと軽く握りしめた。槙島は唇を噛みしめて声を堪えたが、彼の太ももはもっととねだるようにグソンの腰をつかまえていた。
「じゃあ……どう《《処理》》していたんですか?」
グソンは槙島の耳元で低くささやいた。
「俺は、貴方の血管を舐めながら――」舌先で頸動脈をなぞる。槙島の肌が粟立ち、腰がくっと持ち上がった。グソンはその引き締まった臀部の丸みを撫で、揉みしだいた。
「ここに、ゆっくりと俺の《《牙》》を突き立てて――」尻の割れ目に指をさしこみ、布地の上からカリ、カリ、と爪を立てて引っ掻く。窄まりがヒクついて指先を喰んだ。
「貴方の白い肌が赤く熟れるのを待ってから――、ここに噛みつき、」首筋に軽く牙を食い込ませた瞬間、槙島の喉から「っ……く、……っ」抑えきれない声が喉から漏れた。
「じっくりと血を吸い上げたいと――いつも思っていましたよ」
血が滲んで甘くなった首筋をねっとりと舐め上げる。槙島の喉仏が上下し、荒い息遣いが戻ってくる。
「旦那は何を想像していたんですか? 俺が理性を失うことを期待していたとか? 教えてくださいよ……《《公平》》に」
「は……その瞬間に興味がないかと言われれば、嘘になる」槙島は強気に言葉を返した。しかしそれが虚勢であることは疑いようもなかった。
「知ってますよ。俺に牙を立てられる瞬間がたまらなく好きなんですよねぇ、槙島の旦那は」
窄まりを指先でトントンと叩きながら、皮膚を突き破らないよう首筋を甘噛みする。
「ぁ……っ、っ……く……」
「期待しているところ申し訳ありませんが――」グソンはほくそ笑みながら言った。「《《今回は》》こちらの貫通は致しません。慣れていないでしょうからね」
「なぜ……慣れていないと思うんだ?」槙島が挑発的に言い返す。
グソンは、ふ、と鼻で笑いながら言った。「純潔の香りがしますから」
槙島の窄まりが言葉より雄弁にきゅっと反応した。
「まさか、そこだけ伝承通りなのか? 処女の血が好みだとでも?」
「冗談です、ただの勘ですよ。当たっていたようですが」
槙島は微笑した。完璧なポーカーフェイスだったが、そのまなざしが好戦的な色を宿すのだけは隠せなかった。
グソンは槙島の下衣を脱がし、血袋のごとく魅惑的な白い昂りをあらわにした。
「今日はこっちで我慢してください」
コントラストが際立つ自身の欲望を重ねる。先端からあふれた蜜を指に絡め、まとめて握りこみながら、ゆるやかに腰を動かし始める。
「……っは、……っ」槙島の腰がくねった。よほど堪えかねていたらしい。
「俺もできるだけ我慢しますが――」グソンは牙を剥き出しにしながら、甘やかに囁いた。「万が一、吸い殺しちまっても許してくださいね」
槙島が何かを言いかけるように喉を震わせたのを無視して、容赦なく頸動脈に牙を突き立てた。
「っ……ァあ!」槙島の言葉にならなかった声が響く。
グソンは深呼吸しながら、これ以上ないほどゆっくりと血を吸い上げ始めた。流れ込む聖餐に脳神経を侵されながら、快楽を引き延ばすために、吸血量を調整する。
「――ッぁ、あァ……っ、く……っ、んぁ……っ!」
槙島は、ビクン、ビクン、と身体を何度も痙攣させてもがいた。グソンはそれを力で押さえつけ、首筋に吸いつきながら、本能のままに腰を小刻みに揺さぶる。
〝俺は今、この男から血を奪い、同時に快楽を与えている〟
支配的な高揚感の中で、グソンは腰を震わせた。槙島のものと同時に熱い奔流が噴き出した。ドクッドクッと断続的に腹部を濡らしていく。だがそれで終わりではなかった。渇きはまだ満たされていない。逃れようとする獲物を組み伏せ、執拗に血を啜り上げる。胸を激しく叩かれ、ガリガリと背中を引っ掻かれる痛みさえ快楽のスパイスにすぎなかった。からだの下で脚をばたつかせてもがく無力な存在を、どうしようもなく独占したかった。大人しくしろ、と言って舐めてやると抵抗が弱まった。また牙を突き立てると暴れたが、それも次第に弱々しくなり、ヒクヒク痙攣するだけとなった。牙を抜いた後もしばらく腰を振り続けた。ようやく満たされたと感じたのは、三度も吐き出した後だった。
グソンは、息を整え、おそるおそる舌で牙を確認した。空腹が満たされて縮んではいたが、まだ存在していることに安堵する。
ゆっくりと身を起こし、自分の下で組み敷かれたままの男の顔を見る。
槙島は、ぐったりと脱力しながら、今もなお痙攣を繰り返していた。
いつもの全てを見透かすような深遠は、グソンの調教によって引きずり出された、純粋な昂奮の残滓に浸りきっていた。
その口元に、満足げな笑みが浮かんだ。
「……随分と、手酷いやり方だったな」
槙島が、牙の痕が残る唇を舐め、楽しそうに囁いた。
グソンの背筋を、ゾクっとするような緊張が走り抜けた。
〝こいつ……命を失う快楽さえ愉しんでやがる〟
槙島は、まだグソンの腕の中にいる。その無防備な姿で、次のゲームを待ち侘びている。
この男を支配するのか、それとも、この男に飲み込まれるのか。
もう、後戻りはできない。