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シガレット・キス

 唇に弾力のあるものが触れた。三秒ほど経ってからそれは離れた。  事故だ。とグソンは誰に対してなのか自分でもわからないまま言い訳をした。心の中で言っただけで、表向きは動じていないように振る舞ったつもりだった。対して槙島は「失礼」とこともなげに倒れこんだグソンの上から退いた。その無感情きわまりない態度からすれば、グソンの反応はただ硬直していたに過ぎなかった。  以上が数日前に発生した、取るに足らない接触事故だ。どちらかといえばうっかり唇が重なったことよりも、その原因となったパンチを受けたことのほうが大ごとだった。あの槙島が勢い余るほどの一撃だ。ミットを持つ手がしばらく痺れていたし、あの後しばらくしてから、衝撃によって遠ざかっていた痛覚がよみがえったので、グソンは槙島に小言を言った。槙島はさすがにそれは自分のせいだと思ったのだろう。「悪いね」と、左手首に保冷剤をあて包帯で巻くのを手伝った。  未だにキーボードを打つたび、腱鞘炎のようなビリッとした痛みが走る。ミットの厚みが足りなければ、骨までやられていたに違いない。左を選ばれたのはせめてもの情けか。槙島は加減を知らないというより、加減を忘れたふりをするのかもしれないと最近は思いはじめていた。グソンが槙島の打撃をうまく受けてやるほど、槙島は《《ノって》》くる。反撃を交え、足を使い、息が上がるほど、彼の金のまなざしは獰猛な獣の光を帯びるのだ。彼の呼吸にあわせていると、打撃の速度がどんどん上がっていく。さすがにこちらがもたないので、いよいよ頂点に達する、という前に終わらせるのだが、槙島としてはそれが物足りなかったのだろう。結果として有り余った獣の力を、フィニッシュですべて発散させられたというわけだ。 「あまり酷使すると治るものも治らない」  視界の端を銀髪がながれ落ちる。槙島の手がタイピングを続けるグソンの手にやさしく乗った。 「納期、伸ばしてくれるんですかい?」 「君ならそう急ぐ必要もないと思うが」 「早めに終わらせちまわないと気になるタイプなんでね」  そうは言いながらも、グソンはおとなしく手を止め、槙島が持ってきた新しい湿布に貼り替えた。 「だいぶ良くなったかな?」 「おかげさまで。でも運動に付き合うのは当分無理ですよ」 「……口寂しいのかい?」  グソンは無意識のまま唇に触れていたことに気づいた。さいきん手持ち無沙汰になるとやってしまう癖だった。 「いえ、」と続く言葉が見つからず、中途半端に言葉を切る。変なことをしているわけではないはずだ。と思いながらグソンは注意深く槙島の反応をうかがった。 「気を遣わなくていい」 「は? いや、」  槙島からの予想だにしなかった言葉に、グソンはしどろもどろになった。 〝気を遣わなくていいだって? どういう意味だ? あのことは気にするなという意味か? いまさら何を?〟 「吸いたいんだろう?」 「……はい?」  吸いたい? 何を言っているんだ、旦那は。  グソンはいよいよ混乱した。覗きこむような槙島の目を見上げ、次になめらかな唇に視線をうつす。 〝その持ち主が誰かとか後先だとかを何も考えなければ、吸っちまいたいに決まってる。何せどこまで完璧なんだと言いたくなるような形で、カサつきのひとつもなけりゃ、薄すぎず、柔らかすぎない弾力だ。気持ちよくって仕方がねぇ〟 「……吸っても、いいんですかい?」 「ああ。別に遠慮することはないよ」  いやいや、いやいや。……そんなことできるわけないでしょう!  という言葉は出なかった。出たのは唇のわななきだけだ。それってどういう意味なんですか、という弁えない疑問とかちあって対消滅した。 〝キスだけなんですか? その先までヤるつもりなんですか? どういう意図で言ってるんですか、旦那?〟  グソンは口をひらきかけた。その唇の隙間に「ほら」と何かが差し込まれた。 「……はぁ」 〝どうせ、そんなことだろうと思いましたよ〟  紙巻きタバコが、下唇の上でため息にかたむく。いつの間に把握していたのか銘柄も以前吸っていたものと同じだった。 「いりませんよ。タバコはもうやめました」 「吸いたいんだろう?」 「吸いません」 「ふうん? じゃ、僕がもらおうかな」  グソンの口から引き抜いたタバコを、今度は槙島が咥える。 「ちょ、それは、ちょっと」グソンは慌てて立ち上がり取り返そうとしたが、槙島は伸ばされた手をひょいと避けた。 「ちょっと待ってください」「なぜ?」狭いスペースを移動しながら、組手のような攻防が繰り返される。 「もったいねぇ!」 「やっぱり吸いたいんじゃないか」 「そうじゃなくて、ですね」  片手の自由がきかない分、グソンは槙島を壁際に追い詰めるよう足を使った。槙島がすり抜けようとするたび左手で進行方向をふさぐと、加減を覚えたらしく強引には突破しない。 「旦那にヤニは似合いませんよ」  グソンは槙島の逃げ場をなくすよう、壁にあてた両腕をつっぱねた。槙島はタバコを咥えたままふっと笑い、後ろ手に尻ポケットを漁り、マッチ箱を取り出してみせた。そこまでアナクロ趣味なのかとグソンが苦笑いする目の前で、シャッとマッチの先端を燃やす。 「…………ったく」  グソンは、火を当てないように顔をそむけた槙島の唇に噛みついた。  正確には口でタバコを奪い返した。槙島はおどろいた様子もなく、身を離したグソンのタバコに火を近づける。  観念してフィルターを吸いこむと、煙草の先端がじりじりと音を立て燃え尽きていくときの、赤いきらめきが目の前の金の瞳に映りこんだ。 「久しぶりの味はどうだい?」  グソンは煙草を唇から外し、深く息を吸って酸素とまじわった煙を肺に充満させた。およそ二年ぶりのニコチンに脳がクラッと揺れる。グソンは恍惚感に身をゆだねるまま槙島に口付けた。そのままフゥーと煙を吐き出してやると、槙島はグソンの胸板を押しのけて激しく咳き込んだ。 「申し訳ない」グソンは口元を半笑いのかたちに歪めながら、再度フィルターを口にした。 「っ……よくもやってくれたものだ」  顔を上げた槙島の目尻に光るものを見つけ、グソンは珍しいものを見たように瞳をわずかに見開いた。今度は煙を吸い込ませないよう、顔を背けて吐き出してから「吸ってみたかったんでしょう?」と嘯いてみせる。 「別に、試したことがないとは言ってないだろ」 「あるんですか。初めてかと」 「さすがにこんなことをされたら、誰だって咳き込むさ」  槙島はグソンの手から煙草をうばった。灰が欠けてぱらぱらと落ちた分、またじりじりと伸びていく。  グソンの後頭部を獲物を逃すまいとするような五本の指が鷲掴む。ニヤニヤと軽薄な笑みを浮かべたままの唇に、槙島の噛みつくような口付けが襲いかかった。  予想していたグソンは、槙島の舌ごと煙を吸い込んでやった。かれの舌は甘い味がしてそちらのほうがよほど麻薬じみていた。  満足して唇を離そうとすると、かぎ爪のような指先が後頭部に食い込んだ。 「ン、ッ……!」 〝ちょ、旦那……〟と抗議の声をあげようとしても、呼吸を止めた状態では何もかもままならない。鼻から煙が漏れると、今度はそちらまで摘まれ、いよいよ息がつっかえる。槙島がそうしたように押しのけようとしても、このような場合の力の差はあきらかだった。しまいに槙島の舌に口蓋をなめられ、グソンは負けた。ハァーとため息のように煙を吐き出すと、槙島は待っていたように、グソンの肺を通った煙を吸い込んだ。  同時にグソンはようやく槙島の拘束から解放され、酸欠により逆に咳き込むこととなった。槙島の顔に、どこか勝ち誇ったような笑みが浮かんだ。 「煙を顔に吹きかけるという行為にはとある意味があるそうだが……口の中に吹きかけることには、どんな意味があると思うかね?……チェ・グソン」 「運動に付き合うのは当分無理だって、言ったはずなんですけどねぇ……」