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バルマー・ピークを信じるか?

 プログラミングは工程のほとんどが脳内で完結する。少なくともチェ・グソンにとってはそうだった。ひらめきが組み立ってしまえば、残りは打ち込むだけの作業だ。酒が良い供になる。グソンはロック・グラスに手を伸ばした。 「あ。」からんと氷が鳴る。空になっていることに気づかないまま傾けられたグラスに眼光が反射した。薄まった水にちかい液体を舐めながら、同じく空になったボトルを横目に確認し、ふうと一息つく。  自分の能力を最大限に発揮できる仕事は嫌いではなかったが、長時間モニターの前で座っているだけでも、中年の身にはなかなかこたえるものだ。グソンは肩と首をならしながら立ち上がった。  薄暗い部屋から出ると、リビングを照らす内装ホロの夕焼けが義眼に焼きついた。すでに夜は更けているが、このセーフ・ハウスでは、家主である槙島聖護の生活リズムに合った時間が流れている。中央の大きなソファから、銀髪の後頭部が覗いていた。生活空間は共有しているものの、互いに用がなければ声をかけることもあまりない。グソンは気にすることなく通り過ぎ、キッチンの冷蔵庫を開けた。すると見慣れないが見慣れているものが鎮座していた。祖国の伝統酒・マッコリだ。 「これ、旦那が飲むんですかい?」  冷蔵庫から取り出し、槙島に見えるよう掲げる。ページをめくる音がひびいた。 「君への差し入れだよ」槙島は本に視線を落としたまま言った。 「それは……どうも」 「僕の分も頼む。確かウイスキーが残っていたはずだ」  はいはい、と重量感のある瓶を持ち上げる。これも泉宮寺豊久から貰った希少なものなのだろう。酒は好きだが詳しいわけではないので、どのくらい珍しいのかはわからなかった。そもそも今日日は酒そのものが失われつつある。 「何かつまめるものでも作りましょうか」 「いや、今日はいい」 「ウイスキーはロックで?」 「ああ」  グソンは製氷しておいたロック・アイスをふたつ取り出した。片方はグラスに落とし、さらに水を注いだ。グラスそのものを冷やすためだ。もうひとつはペティナイフで角を削り落とし、丸く形成していく。できあがった後は水を捨て、少し溶けた氷は自分用のグラスに移し、丸氷は槙島のグラスへ。そこから伝わせるようウイスキーを注ぎ、まんべんなく冷やすために軽くステアすれば完成だ。 「どうぞ」グラスが机に置かれたところで、ようやく槙島が視線を上げる。 「ああ、ありがとう」  ホロの夕差しをうつしたようなまなざしが、グソンを見上げながら礼を言った。閉ざされた本が脇に置かれ表題があらわになる。ニッコロ・マキャベリ『政略論』——わざわざマッコリを用意した上でのこれは皮肉か? グソンが苦笑いすると、グラスに口をつけた槙島が目を細めた。 「……君は多才だな」 「それほどでも」 「バーテンダーとしてもやっていけるんじゃないかい」 「これ以上働いたら過労死しますよ」 「じゃ、僕の専属というわけか」  槙島がくっとグラスを深くかたむけた。白い喉仏が上下する様子に、自然と目を奪われる。 「何のために雇われてるのか、たまにわからなくなるんですよねぇ」  さっそく飲み干されたグラスを手渡され、ぼやくように言う。今日の槙島は機嫌がよく会話を続けたいようだ。グソンは自室に戻るタイミングを失ったことを悟った。氷が丸々残るグラスに今度はダブルでそそぎ、少し距離をあけて隣に腰かけた。 「それも味見したいな」  グソンがマッコリを注ぎはじめるのをみて、槙島が興味を持ったように言った。実は皮肉めいた差し入れは口実で、ただ味わってみたかったのだろうか? 「飲んだことありませんか。少し甘めですよ」  槙島にグラスを渡すと、彼は白く濁った液体を鼻に近づけてから、舐めるように口をつけた。 「うん……確かに。口当たりがいいね。あまり強くはないようだ」 「ですね。酔うには向かない」 「君には物足りないかな?」 「いえ、そんなことは。ただ懐かしい気分になります」  グソンは槙島から返されたグラスを呷った。まろやかで甘酸っぱい味が口の中に広がった。  ひとときの沈黙がながれる。あるいは郷愁に浸っているように見えているのかもしれない。槙島は雄弁な男だが、ときには沈黙があらゆる言葉に優る。居心地が悪いわけではなかったが、結露したグラスをじっと見つめる横顔に、グソンは何気なく声をかけた。 「旦那もなかなかいける口ですよね」  槙島の無表情だった口元が、ふっとやわらかく笑みをつくる。 「顔に出にくいだけで、酔わないわけじゃない」 「へぇ。酔うとどうなるんですか、槙島の旦那は」 「さあ……自分じゃよくわからないよ。君はどうなるのかな、チェ・グソン」  いつかしたようなやり取りを繰り返しながら、悪戯っぽい眼差しがグソンに向けられる。嫌な予感がした。槙島はウイスキーを机に置くと、飲みかけのマッコリをグソンの手から奪い取り、一息のうちに飲み干した。そうして空になったグラスになみなみとウイスキーが注がれる。ああ、そんな高い酒が台無しになるようなことしないでくださいよ。と言う間もなく、マッコリ風味のウイスキーが目の前に置かれた。グラスと槙島を交互に見やるグソンに、飲むだろ? という圧がかかる。 「…………酔って剃刀を振り回したりとか、しませんよね?」  槙島の瞳が険しく細まったのを見て、グソンは逃げるようにウイスキーを呷った。  たがいに酒を注ぎ合い、流し込むこと一時間。  グソンは「あー……」とうめきながら背もたれに寄りかかった。完全にアルコールが回りきり全身がだるい。意識はまだはっきりしているものの、槙島が「暑い」と小言を漏らしても、いつものように空調を調整しようとは思えなかった。その槙島は姿勢をななめに崩しながら、すっかり薄まったウイスキーのグラスを持ち続けている。 「……グソン」と余ったグラスを寄越される。「旦那の番ですよ」と突き返すも、頬にヒヤッとした感触が張り付いた。無理やり押しつけられたグラスを仕方なく受け取り、これで最後だと自分に言い聞かせながら喉を鳴らして飲み干す。ほとんどぬるい水で味もクソもない。はああ、とため息をついて空のグラスを置き、ぐらついた頭を背もたれに戻す。すると今度は槙島が身を起こした。まさか、と思ったときには、机に置かれた空のグラスへ、残りのウイスキーがすべて注ぎこまれていた。 「ちょ……もう飲めませんって」  据わった目をした槙島に無言でグラスを突き出され、限界です、と拒絶する。そもそもなぜただ飲まされる側になっているのだろうか? 「まだ余裕があるように見えるが」 「ほんとに吐きますから、これ以上は……」  しかし槙島の優れた体幹は、今はグラスの中身をこぼしそうなほどにふらついていた。それと比べれば確かに自分のほうが余裕があるのかもしれないと思いつつ、いや、これ以上は無理だと否定する。 「旦那こそ、実は酔ってないとか」  槙島の顔色は当人の言っていたとおり、まったく変わっていない。グソンは槙島の手からグラスを奪って口元に傾けてやった。 「んっ…………」口の端からウイスキーが垂れたが、槙島は顔を顰めながら三分の一ほどは飲みこんだ。 「はー……次は、君だ」  グソンは仕方なく口をつけた。ごくっと大袈裟に喉をならしてみせて実際に含んだのは一口分のみだが、それでも頭がくらくらと揺れる。グラスを机に戻したが、さすがにもう何も言われなかった。槙島の姿勢がずるずるとさらに崩れ、グソンの肩に額が押し当てられる。 「吐きませんよね?」 「気分は悪くないから、大丈夫……」  グソンはなんだか妙な気分になっていた。物理的にここまで近づくことはあまりない。スパーリングの相手をしているときくらいだろう。枕にされている肩から、槙島の熱が伝わってくる。 「横になったほうが……」  槙島は「いや」とも「ああ」とも取れるようなうめき声をあげた。意識が朦朧としているのかもしれない。グソン自身も先ほど飲んだ分のアルコールが効きはじめていた。酩酊するのは寝入りばなのように心地いい。全身が湯に浸かったように重く、まばたきはゆっくりと、目を開けたまま眠りにつくようだ。思考は夢の世界を走るように、意識の外側でなめらかに活動している。軽いトリップ。目覚めるまでの何もかもがうまくいく時間。身体は重くもなにかをするのに億劫だとは感じない。苦しげな呼吸を楽にしてやろうと泳ぐように手を動かす。自分にもたれかかる男のシャツの釦を外しながら、さらさらとした銀髪に鼻を埋める。洗髪剤の香りの奥に若々しい匂いがした。  釦を外していくグソンの手を槙島の手がつかむ。肩に乗った頭が気だるげにグソンを見上げた。視線が交差し、手指が絡み合う。ホログラムの日差しが沈んだ。  旦那、と声をかけようとしたがのみこまれた。鼻でも口でも息継ぎしながら、溺れるように唾液と舌を絡める。酒の匂いがひどかったが止める気にはなれなかった。唇をぴったりと重ね合わせながら、槙島の手にうながされて釦をすべて外す。鍛えられた背中に手をさしこむと、頭をかき抱かれ、組み敷かれた。肉食獣がじゃれるような仕草でキスの角度が変わる。邪魔な背もたれのクッションは次々に床へ落とされ、ソファがきしんだ。  大の男ふたりが寝そべるには、ソファは手狭すぎる。グソンはすべり落ちた片足で床を探り、のしかかる槙島ごと上体を起こした。額を合わせながらしばし息を整えていると、また唇を吸われる。応えるように上唇を食んだ。いったい何をやっているのかと考える。どうしたいのか。何を求めているのか。そんなことが取り留めのない思考となってこぼれ落ちていく。どうでもいいじゃないか。と言いたげな目が続きをねだる。酔いがさめるのをきらうように、槙島がまた机に手を伸ばした。グソンは先を察しても黙って見ているだけだった。案の定、酒を含んだまま口付けられ、無理やり飲まされる。当然、同じことをやり返した。ぬるいウイスキーが喉を通るたび、かっと焼けるような刺激をもたらし、胃のあたりで燃えさかる。今にも溶けそうなほど汗ばんだ身体だが、なお密着させるように脚を絡め合い、腰を押しつけ合った。もっとも、酩酊した槙島は無反応で、グソンには反応するものがなかった。  わだかまった情欲をひたすら舌を絡めてぶつけ合っているうちに、グラスは空になった。胸元にぐったりともたれ、ハアハアと荒く息づいている槙島の長い襟足を何とはなしに指でもてあそぶ。 「何を考えてる?」出し抜けに槙島が口をひらいた。 「いえ、特に何も……強いていえば、なんでこんなことしちまったのかってことですかねぇ」 「酔った勢い、というやつかな?」 「旦那が?」 「仕掛けたのは君だろ」  どうやら意見の相違があるらしい。グソンは肩をすくめた。口付けてきたのは槙島からだ。 「あなたとは、こんなことするつもりなかったんです」 「ふうん? つまり君は酔うと大胆になるわけだ」 「まったく怖いもの知らずにも程がありますよ。いくら酔ってたといっても、旦那に手を出すなんて……ねえ?」 「剃刀は振り回さなかっただろう?」  グソンは苦笑いした。どちらかといえばそっちのほうがわかりやすくて良かったです、なんて口を滑らすような真似はしない。 「酔った勢いか……プログラマには、ある種の信仰があるというのをどこかで読んだ覚えがある」 「……都市伝説ですよ、それ」 「君が言うならそうなんだろうね。じゃ、これも間違いかな?」  グソンは指をすりぬけようとする銀髪を追って後頭部をひきよせた。 「……もう酔いはさめてますから」