〝俺は死んだはずじゃなかったか?〟グソンはにわかに思い出した。
最後の記憶は視界全体に広がる閃光だ。さながら神罰のごとく放たれた
殺人銃の一撃により、おそらく苦痛を感じる間もなく即死した。
グソンは周りを見わたした。電子機材の青白い光が、うす暗い部屋を照らしている。槙島に声をかけられたような気がするが、まどろんでいるうちに、彼はいなくなっていた。夢をみていたのだろうか。死んでいるのに意識があるというのはおかしなことだ。しかも撃たれたにしては、幸せな夢でもみていたような、心地いい目覚めだ。
眠りはいくつもの夢を見せる。そのうちのひとつが、あの閃光だったのだろう。とグソンは結論づけた。
だがこの一日のはじまりは、あまりに身に覚えのある過去だった。デジャヴというには先のことを予測できすぎた。たとえば夕飯は卵抜きの海老炒飯をリクエストされる。できあがりを待つあいだに槙島が読んでいる本の内容も覚えている。槙島が所持している本はたいてい初版で、なかでも『ファースト・フォリオ』は、その重厚な赤い表紙から印象に残りやすかった。
グソンがダイニングテーブルにふたり分の炒飯とスープを運んでくると、槙島はその重々しい本を閉じて脇に置いた。もちろんスープに溶き卵は入っていない。
「いただきます」槙島は日本人らしく言って散蓮華を持った。グソンはかれを注意深く観察したが、細かい所作が一致しているかどうかまでは、さすがにわからなかった。おそらく一年ほど前にさかのぼっている。
「どうかしたかい?」炒飯を口に運ぼうとした槙島が、怪訝そうにグソンを見やる。グソンはそこで自分が食事にまったく手をつけていないことに気がついた。
「いえ、何も」グソンは肩をすくめると、何事もなかったように炒飯と向き合った。が、やはり手をつけずに顔を上げた。
「旦那。俺が未来を知っていると言ったらどうします?」
槙島とはたわいのない話もするが、荒唐無稽な話への反応はわからない。様子をみて早々に切り上げるかどうか判断するつもりで言った。
槙島はとくに目立った反応は見せず、炒飯をゆっくり咀嚼し、さらにスープを飲みこんで、ナプキンで口元を拭いてから、ようやく口を開いた。
「それは、例え話かい」
「……リチャード二世ですよね、読んでいたのは」
槙島は片眉を上げた。グソンは目線を落として、卵抜きの炒飯を口に運んだ。物足りない味とともに記憶がよみがえる。
〝ずいぶん古そうですねぇ、それ〟
〝シェイクスピアの戯曲集、その初版だよ。かつては世界でもっとも高額な書物と言われたものだが、今やその価値のわかる人間も少なくなった……〟
〝何を読んでいたんです?〟
プルースト効果というのだったか。槙島が再現していたのを覚えている。かれの紅茶に浸したマドレーヌに比べ、なんとも優美さに欠けているが。
グソンも槙島も、その後は食事を終えるまで無言のままだった。
「ごちそうさま、美味しかったよ」
「お粗末様でした」
グソンは立ち上がり、きれいに平らげられた食器を下げ、槙島はまた本を開いた。グソンは槙島にならい、持ち出した話のことは忘れたように振る舞った。何かの冗談かと思われたか(それも無理もない話だ)、槙島の興味をそそるものではなかったのだろう。無理に信じてもらおうとするほどのことでもない。自分でもまだ半信半疑なのだから。
仮にこの記憶がほんとうに未来のできごとだったとしても、あれから槙島がどうなったのか、世界がどう変わったのか、あの場で命を落としたグソンに知るすべはなかった。その運命も避けられるものなら避けたいが、槙島の意向に逆らってまでそうしようとは思わなかった。結局のところグソンの目的は、槙島の道行きをサポートすることだからだ。願わくはその先か、あるいは終わりを見届けたい気持ちがないとはいわないが、それは計画の邪魔にならない範囲で、個人的に対策を考えておけばいい。
「ところで」不意に槙島が口を開いた。キッチンをひととおり片付けたグソンは、自室に戻ろうとした足を止めた。
「シビュラの正体はつきとめたのかい」
「……信じてくれたんですか?」
グソンは苦笑いしながらキッチンに向き直った。話が長くなりそうだったので、スポンサーが槙島のために用意した天然茶葉を開ける。ベルガモットの香りが鼻をくすぐった。
「たしかに突拍子もない話ではあるが、ことシビュラに関して君がそんな冗談を言うとも思えなくてね。それに、僕の読んでいた章を当ててみせたのが何かのトリックだというのなら、種明かしをしてもらいたいものだ」
「この眼は本物よりも優秀ですからね。本の内容をのぞき見る程度なら朝飯前ってところですが」
グソンは軽い調子で言った。ふ、と笑う声と紙をめくる音が返事だった。紅茶を注ぎながら、義眼の焦点を槙島に向ける。現代ではもうめったに見かけることもない紙の本を手繰る姿には、ある種の儀式めいた神聖さを感じる。実際、かれにとってページをめくるという作業は、精神の調律となるらしい。
グソンが槙島の前にカップを置くと、槙島は礼を言って紅茶を一口味わった。柔和な微笑をうかべる唇がふうと息をつく。
「それで?」穏やかなまなざしがグソンを観察する。槙島は興味をもっているようだった。かれの表情から考えていることを読み取るのは簡単ではないが、長年の付き合いからある程度はできるようになっていた。
「人の脳でしたよ」
グソンは軽い調子で言った。槙島は「へぇ」と言ってまたカップを口元へかたむけた。退屈そうにも思える反応だが、かれが思案していることをグソンは察していた。サイマティックスキャンは、槙島をクリアホワイトの色相としか判別できないが、グソンにとって槙島は透明人間ではない。
「事実は小説よりも奇なりというが……どこかで読んだような話だね。君はどう思った?」
「どうもこうも……こいつの正体をネットにぶちまければ愉快なことになるんじゃないかとは思いましたけど、それ自体については、まあ、ばかばかしいって感じですかね。理想を謳う神託の巫女の審判は、同じ人間が下したものでしかなかったんですから」
「機械であろうと人間であろうと、退屈なシステムであることには変わりない。ただ、その脳の選別はどう行なっているのか気になるところだね。それも知っているのかい?」
「さあ、そこまでは……正体を知った直後に死んじまったもんで」
グソンは肩をすくめた。槙島は無感情に「そうか」と答えただけだった。グソンも何かを期待していたわけではなかった。いま生きている人間が、死んだことがあると言ったところで、反応に困るだけだろう。だがあの後の槙島はどう思ったのだろうか。人が死んだくらいでは眉ひとつ動かさない男だ。やはり何の感慨も生まれなかったのだろうか。それとも死がつたわる前に、槙島もあのノナタワーで息絶えたのだろうか。〝まさか〟グソンは可能性を否定した。
「それにしても、ちょうど読んでいたのがリチャード二世とは奇遇なことだ」
槙島がファースト・フォリオの表紙をなでながらつぶやいた。
「……何かあるんですか?」
「ウェールズの海岸に上陸したリチャード二世が、ソールズベリー伯に告げられた言葉の中にこんな一節がある――
時よ戻れと命じなさいBid Time Return」
「へぇ」グソンは、それがどういう話か知らなかったので、適当に相槌をうった。
「同名の小説もあるよ。恋焦がれた女性を求めて時間旅行する話だ」
「恋愛小説も読むんですね、旦那は」
「ジャンルにこだわりはないよ」一息つけるように、槙島が紅茶に口をつける。「君も、何かを求めて過去に飛んだのかい?」
カップの水面に伏していた視線が、目の前の男に移る。グソンは内心そわそわと落ち着かなくなった。彼のまなざしは何もかも見透かすようで、後ろめたいことがあると直視しにくくなる。だがグソンはなにが後ろめたいのかあえて考えずに口を開いた。
「いやぁ、求めるもなにも一瞬のできごとでしたからね。俺としては、シビュラの正体をつかんで愉しみの絶頂のうちに死んで、まあまあ悪くない終わり方だったと思ってるんですけど、ねぇ」
「いいね。正直、君が羨ましいよ。こんなことを言うと不謹慎かもしれないが」
「かまいませんよ。痛みも苦しみもありませんでしたし」
「エリミネーターかい?」
「ええ。せいぜいパラライザーくらいだと思っていたんですが……」
まさか即時抹殺対象となるほどの犯罪係数を叩き出したとは、グソンは自分でも意外に思った。これまで槙島が手を貸してきた犯罪者たちとは違うという自負があったためだ。以前に槙島から言われたとおり、グソンは普通の人間だった(槙島が自分自身をも普通と称したことには、苦笑いを浮かべたが)。人生のなりゆき上、その手のことにある程度なれているとはいえ、拷問じみた所業を前に、顔色ひとつ変えない槙島のようにはなれないし、死体をアートに見立てるような感性もなければ、ハンティングと称して人間を狩る趣味もない。
「シビュラシステムの正体を暴いたとき、君は一種の興奮状態にあったはずだ。それで脅威判定が更新された可能性もある。ただの憶測だけどね」
「そうかもしれません」グソンは、しかし、と思案した。
そもそもあの場所は電波暗室だった。ドミネーターは使えないはずだが、向けられた銃口はエリミネーターに変形していた。その作動音に気がつき、振り向きざまにガス圧銃で濃硫酸カプセルを撃ち出したところで、グソンの意識は青い光に刈り取られた。一瞬のことで誰にやられたのか見えなかったが――シビュラとのリンクを失ったドミネーターを操れる者、配列されたいくつもの脳――。
「それで、どうするんだい」
槙島からたずねられたグソンは思考を中断した。「何がですか?」
「これからのことだよ。君はどうしたい?」槙島はグソンをじっと見つめて、続けた。「君の目的のひとつはシビュラの正体を暴くことだったはずだが」
「そうですねぇ……ま、やることは変わりませんよ。どうせ証拠がなければ世間に公開することもできませんからね、これまで通り旦那のやりたいことをサポートしますよ」〝どうしたいかなんて考えてどうなるというのか。シビュラがあるかぎり、潜在犯に選択の余地はない〟できることは、安穏と生きる人々と、自分の価値を認めない世界に対する反抗だけだ。それはすなわち槙島に協力することだった。
「必要なら俺の知るかぎりの未来についてお伝えすることもできますが……?」
グソンは槙島をうかがうように言った。
「そうだな……考えておくよ。とりあえず今のところは必要ない。君にとっては退屈かもしれないが」
「いえいえ、お気になさらず」グソンは立ち上がり、自室に戻った。
真っ暗なモニターにうつる自分と向き合いながら問いただす。
もし未来を変えられるとするなら、変えるのか?
このお話は同人誌のサンプルです。
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