槿花一朝の夢
夜明け前の静寂に包まれたセーフ・ハウス。家主である槙島が眠りに落ちかける頃、くぐもったうめき声が壁の向こうからひびいた。声はチェ・グソンのものだ。夢見が悪いのか、こういうことは時折ある。今までも槙島はあえて干渉はしなかった。今夜もベッドに横たわったまま耳をすませていると、声はやがて啜り泣くような様相を帯びていく。
「ス……、ソン……スソン……」
槙島は身を起こした。物音を立てず、裸足のまま静かに部屋を出る。寝室兼、機材部屋と化しているグソンの部屋には、プライバシーを配慮して鍵をつけているものの、いつノックをしても「開いているのでどうぞ」と返ってくる。それは就寝時も同じらしい。
ドアを開けるとうめき声が一層大きくなった。グソンは寝苦しそうに上掛けを蹴落とし、汗だくの首筋をむきだしにしながら息を荒げている。槙島はベッドのそばに佇みながら、さてどうしたものかと思案した。
起こすことはむしろ、余計なお世話になるかもしれない。夢の途中で目覚めることは、すなわち記憶に残る可能性があるということだ。
「助け…………スソン……だけは……」
グソンの目尻から涙が伝う。槙島は静かにベッドへ腰かけ、過去の夢に苛まれる共犯者を見守った。
「う……、っ…………」
しばらくして悪夢が終わったのだろう、グソンの呼吸はだんだんと穏やかになっていった。途中で目覚めるようなら、気を紛らわす話し相手にでもなるつもりだったが、その心配はなさそうだと槙島は立ち上がった。
「…………だん、な……?」うす暗がりに義眼の瞳孔が明滅する。
「悪いね。起こしてしまったかな」
夢の内容は覚えているだろうか。訊ねたことがきっかけで思い出してしまっては元も子もないので、槙島は何も聞かなかった。
「眠るといい。まだ目覚めるには早いからね」
グソンが半覚醒のまま身を起こそうとするのを、枕まで押し戻す。部屋着越しに触れた肩はじっとりと汗ばんでいた。グソンの義眼は、夢か現かを見極めようとするかのように、なおも瞬きつづけている。
槙島はチラッとサイドテーブルに視線をうつした。空のグラスと酒のボトル。槙島はふたたびグソンをまっすぐに見下ろす。
「寝酒は眠りが浅くなる。眠れないようなら、睡眠薬を用意しよう」
「……すみません、お騒がせしたようで」
グソンは濡れたこめかみを拭って、消沈したようにつぶやいた。
「自分でやりますから、大丈夫です。旦那は休んでください」
肩をおさえる槙島の手を退けようとしたグソンの手は、今もわずかに震え、力が入らないようだった。
「こんな状態で?」
「いつも俺をこき使うお人が、今日に限ってはやけにお優しい……」グソンは弱々しくも皮肉な笑みをうかべた。
「無理をさせているつもりはなかったが、キャパシティをこえているようなら……」
「いえ、お手を煩わせるほどの問題はありませんよ。ちょいとばかり古びているものでね、ときどき調子が悪くなるだけです」
「君は機材を手ずから修理するだろう。僕も雇用主として、君のパフォーマンスを維持する努力は怠らないつもりだよ」
「それはそれは……ありがたいお言葉で」
顧慮と遠慮の応酬を繰りかえした結果、先に折れたのはグソンだった。身を起こそうとしていた力が抜け、大人しくベッドに沈みこむのが、槙島の掌越しにつたわる。
「飲み物でも持ってこようか」と踵を返しかけた槙島を「旦那」とグソンのささやくような声が引き留めた。
「……寝言だと思って聞いてくれますか」
「ああ。構わないよ」
「このまま……俺が眠るまで、ここにいてください」
槙島が口を開くまでのわずか一瞬の沈黙にさえ耐えきれなかったように「いえ、やっぱり」とグソンは前言を撤回しようとした。だが槙島はグソンが言い切るまえに、ベッドの中に滑りこんでいた。
「旦那?」困惑した表情と額を突き合わせるようにしながら、槙島は窮屈な空間に身をおさめた。
「それなら、一緒に眠ったほうが効率的だ。何か問題があるかい?」
「いえ……あの……狭いですよ」
「うん、だからもう少しそっちへ寄ってくれると助かるな」
グソンは「はあ」と気圧されたように槙島のスペースをあけた。シングルベッドにそこそこの体格の男がふたり横たわれば、身体の一部が触れ合うことは避けられない。
「それで眠れるのかい?」
背中を壁にぴったりとはりつかせるグソンをみて、槙島は微笑んだ。
「いや……しかしですねぇ……」
「ああ、枕は必要ないから君が使うといい」
「そうではなく……これじゃ逆に眠れませんよ」
「ふうん? 人肌が恋しい、という意味に聞こえたんだけどな」
図星を突かれたか、グソンは言葉を詰まらせた。
「……旦那にも、そんな時があるんで?」
「さあ。どうだったかな……」
槙島はゆっくりと瞳を瞬かせた。夜の闇のなかで視線が交わる。グソンは逡巡するように何度か唇をうすく開いては閉じていた。何を考えているのかまではわからなくとも、迷いを抱いていることは明らかだった。
槙島は、互いの間にある、決して広いとはいえないシーツの隙間をやさしく叩いて寝るよう促した。グソンは緊張を小さく吐き出し、自分のベッドながら「失礼します」と仰向けにそっと寝転んだ。
肩と肩が触れ合う。グソンの義眼がちらっと槙島の様子をうかがった。メカニカルな眼光を放つまなざしは、暗闇ではよく目立つ。槙島は小首をかしげるように視線を合わせた。周りの音がすべて消え失せたような沈黙が流れる。
出し抜けに、グソンが腕を上部に伸ばした。窮屈だったのだろうと位置をずれようとした槙島を、伸びた腕が抱きよせた。
槙島の首筋に押し付けられた唇が「だんな」とささやく。槙島が抵抗せずに身をまかせていると、様子をうかがうような慎重な手つきが、肌着の裾からじかに背中へ侵入していった。
こういうことになると、予期していたわけではなかった。チェ・グソンは娼婦を買っていたこともあり、彼が同性愛者である可能性を、ことさらに意識するような機会もなかった。だが槙島はだまってグソンの行為を受け入れた。忌避感はもともと存在しない。ただ興味がないだけだった。相手が女であっても男であっても。
限界までひそめたような息づかいと、遠慮がちな衣擦れの音を立てながら、秒針よりも遅い手のひらが槙島の素肌をなぞる。少しみじろぐと、ビクッとおそれるように硬直したが、槙島が「やめるのかい。チェ・グソン……」と耳に吹きかけるようにささやいた瞬間、止まっていた時がすばやく動き出した。
槙島のベッドよりもいささか硬いスプリングが、ギシ、ときしむ。仰向けにさらされた喉仏を食むように唇が落とされ、槙島をひっくり返した腕が肌着をめくりあげる。胸元を舌が、脇腹を指が這う。
鍛えられた胸部に吸いつかれ、反射的にうすくのけぞる。舌先が執拗に槙島を追い詰めながら、脇腹を通った指が下穿きをひっかけ、腰骨をむきだしにした。槙島の象徴の反応は乏しかったが、取り出され、揉みしだかれるうちに、生理現象として起き上がった。グソンは、槙島の腹のいたるところに口付けをくりかえしながら下穿きを脱がし、芯をもちはじめた程度のだらりとした白い性器をやわらかく食んだ。下腹部に垂れる長い前髪のむこうから、義眼の発光がちらつく。
「すまないが、君の期待には応えられないかもしれない」
槙島の象徴はなかなか硬度を増さなかった。性的欲求がないわけではなかったが、薄いことは自覚している。
「……構いませんよ。旦那が俺に欲情するなんて、初めから思っちゃいませんから」
「君のせいじゃない」
チェ・グソン、と続けて呼びかけ、腰を引いて横たえていた上体を起こす。槙島は、同じように向き合ったグソンの肌着を手ずから脱がせた。生活を共にしているのだから、裸を見ることもあったが、まじまじと見ることははじめてだった。元軍人らしく実戦的な鍛え上げられ方をした身体。人が人らしく生きてきた証。
「君は十分に魅力的だ」
「それは、客観的にですか?」
半端にたくし上げられた槙島の肌着が、グソンの手によって脱がされる。
「どちらかといえば、主観的かな」
今度は、槙島がグソンを組み敷いた。自分にされた愛撫をまねるように首へ口づけ、唇でなぞるようにおりていく。槙島の肉体がしなやかで柔軟な質であるのに対して、グソンの身体はやや凝り固まっている。年齢かデスクワークのせいか。
「……、旦那」グソンが槙島の肩をつかんだ。ゆるく首を振り「俺はいいんです」と言葉少なに告げる。
主導権を握られたくないのか。槙島はおとなしく従った。セックス・ポジションにこだわりはない。ただ何をどう求められているのか手探りの状態で、ひとつ試みただけた。
「……キスしても?」
そこは確認を取るらしい。妙なところに気を回す。槙島は「ああ」と微笑した。
湿った唇が、槙島の唇を柔く食らった。寝返りをうつように元の横臥位へ戻り、後頭部と背中をかき抱かれながら口づけを繰りかえす。性感を引き出すというよりは、唇の感触を愉しむだけの、親愛に近いキスだった。触れ合う素肌を通じて体温が共有される。槙島は心地よさにうっすら瞼を閉ざした。
不意に頬が濡れた。震える唇に塩気が混じる。槙島は目を瞑ったまま、グソンの後ろ髪に指を差し入れた。
「すみません……旦那、すみません……」
口付けの合間に、懺悔のごとく呟きが漏れる。
「どうして謝るのかな」
「俺は……自分の慰みのためにこんなことを……」
「こんなことで君を慰められるのなら、安いものだ」
しかして言葉は慰みにはならないようだった。槙島はグソンの鼻の横に吸いつくようにキスし、涙の跡をなぞるように舌を這わせ、無機質な瞳を舐めた。
「僕では物足りないかい?」
「……旦那の思いつきには、いつも夢中にさせられますよ」
グソンは槙島の顎をつかみ、舌を深くさしこんだ。槙島もそれに応えて舌をからめた。迎え入れ、侵入し、歯を立て、唇を吸い、静かに貪りあうような口づけを重ねる。
「君こそ。僕の想像をいつだって実現可能にする」
さながら恋人同士が睦み合うようなささやきに、グソンは照れ臭そうにはにかんだ。
「旦那の思い描いた設計書をもとに実装するのが、俺の役目ですからね」槙島の頬や耳の横に、恥じらいをごまかすような口づけをふりかけながら、低い声が言葉を続ける。
「あなたといると、どんな非現実的なこともできちまうような……そんな気分になる」
耳たぶを戯れにもてあそぶ唇に、槙島は小さな痺れを感じた。
「たとえば?」
「たとえば……シビュラを破壊するとか」
「……やはり君は、期待を裏切らないね」
グソンの表情は見えなかったが、小さく笑うような吐息が耳にかかった。槙島の太ももを割るように、グソンの膝が差し込まれる。股間をまさぐられるように撫でられ、そこではじめて性器が兆していることに槙島は気がついた。身体を密着させていたグソンにはよりわかりやすかったことだろう。
「旦那らしいですね」
興奮の仕方が。その声は揶揄するようでいて情愛が滲んでいた。
ひやりとした手に軽く握られ、上下に扱かれる。槙島は息を乱した。
「シビュラシステムの正体が何なのか……まずはそこからですね。実を言うとシステムの中枢については既に当たりをつけていまして」
「……へえ」濡れた音が響き出し、性器を擦る手つきが滑らかになる。
「ただ重要施設だけあって、物理的に侵入するにはセキュリティが少々厄介なんですよ」
「いいね、面白そうだ……公安の目くらましが必要かな。レジスタンスの奴らを利用して同時テロでも起こそうか。それだけでは人手が足りないが、君が今設計しているヘルメットが完成すれば、市民を扇動して暴動を引き起こし、シビュラの機能を一時的にでも麻痺させることくらいはできそうだ」
一息の沈黙のうちに、身震いするような興奮が電流のようにかけめぐった。
「……どうかな?」
無機質な義眼が槙島を見つめた。感情の読めないまなざしだが、そこには確かに熱がこめられているように見えた。
「……ゾクゾクしますね」
ささやきを合図に、示し合わせたように唇へ食らいついた。角度を変えながら何度も深く口づけ、はげしく舌を吸い合う。性器を摩擦する手が小刻みになり、握る力も強くなる。じんと痺れるような快感が下肢の中心で破裂を待つ。絶頂へ導こうとする手つきに槙島は逆らわなかった。くぐもったうめき声が漏れ、ビク、とからだが跳ねる。動きを止めた舌をしごくように舐めしゃぶられながら、生ぬるい体液が断続的に噴射された。グソンの手のひらに受け止めきれなかった分が、肉幹を伝ってシーツに滴る。
最後の一滴までしぼりとるように扱かれた後、密着していた唇がゆっくりと離れた。快楽の余韻と心地よい疲労感に、急激な眠気が襲いかかる。槙島がぼんやりと息を整えている間に、グソンは手早く後始末をすませた。
「……身体が冷えちまいますよ」
まぶたを重くしている槙島の頬にかかる髪を、グソンの指がそっと撫で上げる。
槙島は気だるげに身を起こすと、服を着せようとするグソンをふたたび押し倒した。
「旦那、いいですから……」固辞しようとする声にかまわず、強硬的に下穿きへ手をかける。
「僕がしたいと言っても?」
引きおろす前に猶予を与えると、グソンは苦笑いを浮かべながら「やるといったらやりますからねぇ……旦那は」と言って、いさぎよく自らの手で下半身をさらした。
夜闇にまぎれた陰部の詳細は、はっきりとは目に映らなかったが、平らな股ぐらに男の象徴が存在しないことはわかっていた。槙島は、投げやりに開かれた股の間にそっと頭を落とした。
「何もそんなことまで」
頭上から降りかかる声は無視し、下腹部に唇で触れる。蒸れた空気とかすかな尿の匂い。まばらに生えた陰毛が顔をくすぐる。口づけたまま深みにおりていくと、皮膚は傷跡を中心にかるく盛り上がり、滑らかな感触になった。槙島はその中でひそかに潤んだ尿道口を、そっと舌で舐めた。
うめき声があがった。槙島の頭部に触れた手のひらはしかし、引き剥がそうとはせず添えられるだけにとどまった。
口内にひろがる塩味はおそらく尿道球腺液だろう。陰部をかるく吸ったり、穴を少しえぐるように舌先で責めれば、それはますます溢れ出した。盛り上がった傷跡も、充血したように色を濃くし、心なしか膨らんでいるようだ。わずかに残った男性機能が勃起を試みている、性機能のほとんどを失っても快感は得られるらしい。
「旦那、……」
槙島の後頭部に添えられた手が、銀の襟足を落ち着かなげに指へ絡めた。唇にひくひくと傷跡の脈うちが伝わる。せわしない吐息に合わせて腹筋が起伏する。
伏せていたまなざしを上げると、衝動を噛みつぶすような表情をした男と目が合った。痩けた頬にいつもの冷笑は浮かんでいない。
「……もう充分です」グソンはあきらかに興奮に堪えながら言っていた。
「あなたをこんな、欲の捌け口にするわけには……」
「これから大掛かりなことを仕掛けようとする君が、弱気なもんだ」槙島はさらに強く股ぐらへ吸いついた。
「씨발……!」
グソンは槙島には聞き取れない言葉で悪態を吐き、膝立ちになって槙島の頭部を押さえつけた。もう片手でみずからの人差し指と中指を舐め、腕を後ろにまわす。
槙島が見上げる先に、紅い義眼が煌々と燃え上がるように見開かれていた。槙島は見せつけるように舌を出し、陰部を舐めしゃぶった。口の周りを唾液で汚し、卑猥な音を立て、貪欲に食らいつく。グソンは体を小刻みに揺らしながら、何度も悪態を吐き捨てた。
チェ・グソンにとってこの行為は、悪夢の再演だった。同時に自身の過去と向き合い、己の目的を再認識する儀式でもあった。
息づかいが限界を迎えるとき、断末魔のごときうめき声が発せられ、腰が突き出される。槙島は悪夢の残滓を喉をならして受け入れた。
はあ、はあ、と狂乱の余韻が空気を震わせる。
グソンは何度か息を吐いた後、崩れ落ちるようにひざを折り、嘔吐した。
「こんな世界、壊しちまいましょう」
そう言ってグソンは嗤った。槙島も微笑って二人は一朝の眠りについた。