キスの日
「君の素顔を見てみたいんだ」
壁に背をつけながら、この台詞はどこかで聞いたことがあるぞ、とハーデスは眉根をよせた。そしてヒュトロダエウスという親友が、ほとんど同じような口説き文句で、どこぞの誰かを誘っていたな、ということを思い出し、ますますしかめっ面になったが、あいにく仮面がなくとも目の前の男には伝わりそうもない。
ハーデスをまっすぐに見つめるまなざしには、他意もなにもなく、ただ言葉どおりの意思がこめられているだけだ。そういうやつなのだ。それ以上の意味があるなら、言葉にして伝えている。それがどういう結果をもたらすかはさておいて、口に出さずにはいられない。だから、知りたいことがあるなら、ただ、たずねればいい。
「素顔を見て、それで、どうするんだ」
「ああ、いや、ただ……気になっただけなんだけど」
「……ハァ?」
私の顔は、お前の好奇心を満たすためにあるわけじゃないんだが。という抱いて当然の否定も、彼には言葉にしなければ伝わりはしない。わからないふりをしてくるヒュトロダエウスとは、また別種のわずらわしさがある。
厭だと一言いえば、彼はとくになんでもなかったように、わかった、といさぎよく身を引くだろうが、そこまで意固地になるようなことでもあるまいとも思ってしまう。
これが初対面であれば、なんとまあ不躾なやつだ、とやんわりと追い払っているところではあるが、この男とは、思えばそれなりに長い付き合いをしている。素顔など家族でもないかぎり、あえて見せ合うものでもないが、見られて困るものでもなければ、大した労力もいらないことだ。
残っているのはただひとつ、素直に頼みを聞いてやるのは癪だという、心情の問題だけである。
「……だったら、お前から先に見せろ」
「僕から? 僕の素顔を?」
「私の素顔が見たいというなら、お前も見せるのが、筋ってものじゃないのか。それとも見せるのは厭だというのか」
「その、見せたくないってわけじゃなくて、君が僕の顔に興味をもつのが意外だったんだ」
ハーデスは閉口した。別に興味があるわけじゃない。一方的に見られるのが気に入らなかっただけだというのに。だがそんなことを訴えたところで、そうなのかい、と返されるだけであることはわかっていた。こいつに情緒というものは存在しないに違いない。
フードがおろされ、やや乱れた髪があらわになる。やけにもったいぶるように、ゆっくりと男の仮面が外された。かんばせの半分を隠していたに過ぎないものがなくなるだけで、印象がまるでちがう。生き物の瞳には命がやどっている。いつも仮面越しにみえていた水晶体に、射抜かれるようになる。こんなに惹かれるような、強い眼差しをしていたか、こいつは。
「……ハーデス?」
はっとして、口元をひきしめる。
ハーデスは目の前の男から目をそらし、半ば剥ぐようにフードと仮面を取りはらった。
「……これで、満足か」
彼はなにも言わなかった。ただじっと意思の強い瞳にハーデスを映していた。
非常に居心地が悪い。真正面の鼻のあたりに視線を返しながら、いつまでそうしているつもりだ、もう素顔は見せただろう、そう口にしたい気持ちでいっぱいになったが、どうにも喉が渇いて声が出ない。
「ハーデス」
もう一度、名を呼ばれて、今度こそ「なんだ、」と口にしかけた。
そのときには、たった今はじめて目にしたばかりの顔を、視界におしつけられていた。
後頭部がずりっと壁に擦れる。
それは吐息を残してはなれ、何事もなかったかのように仮面とフードをなおして、風のように去っていった。
呼吸とともに心臓もいくらか止まっていた。わけもわからず放心していると、どこからともなく神出鬼没の親友が肩を震わせながらあらわれた。
「いやあ、彼もなかなかやるねえ」
「お、まえ……どこから視ていた……!」
「キミが壁に追い詰められたところあたりから、かな」
いっそこちらからキスしてやるんだった、とハーデスは熱を覆い隠しながら、ひとつだけ後悔した。