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 「君の素顔を見てみたいんだ」  壁に背をつけながら、この台詞はどこかで聞いたことがあるぞ、とハーデスは眉根をよせた。そしてヒュトロダエウスという親友が、ほとんど同じような口説き文句で、どこぞの誰かを誘っていたな、ということを思い出し、ますますしかめっ面になったが、あいにく仮面がなくとも目の前の男には伝わりそうもない。  ハーデスをまっすぐに見つめるまなざしには、他意もなにもなく、ただ言葉どおりの意思がこめられているだけだ。そういうやつなのだ。それ以上の意味があるなら、言葉にして伝えている。それがどういう結果をもたらすかはさておいて、口に出さずにはいられない。だから、知りたいことがあるなら、ただ、たずねればいい。 「素顔を見て、それで、どうするんだ」 「ああ、いや、ただ……気になっただけなんだけど」 「……ハァ?」  私の顔は、お前の好奇心を満たすためにあるわけじゃないんだが。という抱いて当然の否定も、彼には言葉にしなければ伝わりはしない。わからないふりをしてくるヒュトロダエウスとは、また別種のわずらわしさがある。  厭だと一言いえば、彼はとくになんでもなかったように、わかった、といさぎよく身を引くだろうが、そこまで意固地になるようなことでもあるまいとも思ってしまう。  これが初対面であれば、なんとまあ不躾なやつだ、とやんわりと追い払っているところではあるが、この男とは、思えばそれなりに長い付き合いをしている。素顔など家族でもないかぎり、あえて見せ合うものでもないが、見られて困るものでもなければ、大した労力もいらないことだ。  残っているのはただひとつ、素直に頼みを聞いてやるのは癪だという、心情の問題だけである。 「……だったら、お前から先に見せろ」 「僕から? 僕の素顔を?」 「私の素顔が見たいというなら、お前も見せるのが、筋ってものじゃないのか。それとも見せるのは厭だというのか」 「その、見せたくないってわけじゃなくて、君が僕の顔に興味をもつのが意外だったんだ」  ハーデスは閉口した。別に興味があるわけじゃない。一方的に見られるのが気に入らなかっただけだというのに。だがそんなことを訴えたところで、そうなのかい、と返されるだけであることはわかっていた。こいつに情緒というものは存在しないに違いない。  フードがおろされ、やや乱れた髪があらわになる。やけにもったいぶるように、ゆっくりと男の仮面が外された。かんばせの半分を隠していたに過ぎないものがなくなるだけで、印象がまるで異なる。生き物の瞳には命がやどっている。いつも仮面越しにみえていた水晶体に、射抜かれるようになる。  こんなに惹かれるような、強い眼差しをしていたか、こいつは。 「……ハーデス?」  はっとして、口元をひきしめる。  ハーデスは目の前の男から目をそらし、半ば剥ぐようにフードと赤仮面を取りはらった。 「……これで、満足か」  彼はなにも言わなかった。ただじっと意思の強い瞳にハーデスを映していた。  非常に居心地が悪い。真正面の鼻のあたりに視線を返しながら、いつまでそうしているつもりだ、もう素顔は見せただろう、そう口にしたい気持ちでいっぱいになったが、どうにも喉が渇いて声が出ない。 「ハーデス」  もう一度、名を呼ばれて、今度こそ「なんだ、」と口にしかけた。  そのときには、たった今はじめて目にしたばかりの顔を、視界におしつけられていた。  後頭部がずりっと壁に擦れる。  それは吐息を残してはなれ、何事もなかったかのように仮面とフードをなおして、風のように去っていった。  呼吸とともに心臓もいくらか止まっていた。わけもわからず放心していると、どこからともなく神出鬼没の親友が肩を震わせながらあらわれた。 「いやあ、彼もなかなかやるねえ」 「お、まえ……どこから視ていた……!」 「キミが壁に追い詰められたところあたりから、かな」  いっそこちらからキスしてやるんだった、とハーデスは熱を覆い隠しながら、ひとつだけ後悔した。  ハーデスは、彼のように今すぐこの場から立ち去りたかった。家に帰ってなにも考えることなく寝てしまいたかった。立ち去ること自体は叶ったが、しかし、あからさまに早歩きをしてもついてくる親友をまくことはかなわなかった。ついてくるな話しかけるなひとりにしろという態度でいても、空気を読むわけもなく、結局肩をならべる羽目になる。  なぜ私の友人はこんなにも厄介なやつばかりなのか。とハーデスは思った——といってもそれなりにいるうちの二人だけだったが、問題の二人が強烈すぎるので、そのような印象を抱くのもしかたがない。 「それで、どうだったんだい」 「……なんのことだ」 「はじめてのキスの感想、だよ」  なぜ知っていると喉まで出かかって、かろうじてのみこんだ。そんなことを聞けば「おや、本当に《《はじめて》》だったのかい」などと笑われる可能性がある。ヒュトロダエウスは、真実を知っているのか知らないのか曖昧な微笑を浮かべているが、わざわざ教えてやる必要はないと無視を決め込んだ。  まだ、感触が残っている。  ハーデスは無意識のうちに唇に触れた。その仕草を見た親友が「恋、だねえ」とにやにや笑いながら言った。 「……意味がわからん」 「でも、いやではなかった。そうだろう?」 「…………厭もなにも」  そんなはずは、ない。  ハーデスは半ば自らに言い聞かせるように思考した。  なぜなら今まで一度たりとも、あの男を意識したことなどないのだから。恋と思い違えるような胸の高鳴りも、驚愕によるものでしかない。事実、戦慄による動悸を恋と勘違いする事例は存在すると聞く。顔が熱いのは、おそらく、誰にされていてもそうだった。ヒュトロダエウスの言う通り、あれは初めての口づけだったからだ。  たしかに——不愉快ではなかった。それに冷静に考えれば、あれは、そうなってしかるべき状況ではある。相手が相手であるので、まさかとは思ったが、まったく予想しなかったといえば嘘になった。  キスされることを、半ば予見していたのだ。それを拒みはしなかった。しかしキスされるかもしれない、という状況になることを拒まなかっただけであり、それだけの話で、恋と断ずるには早計すぎる。  ただ思うのは、なぜ、という疑問ばかりだ。そんな素振りを見せたことも見せられたこともなく、唐突な出来事にあっけにとられるしかない。 「だいたい……こういうことは、相手の気持ちを確かめてからするものじゃないのか」 「フフ、彼はそもそも断られるなんて、想像もしていなかったのかもしれないね」 「ハァ? つまり、拒絶されない自信があったから先に——キスをしたと?」  ハーデスは憤慨した。あいつのことは決して嫌いではないが、ある面ではまったく理解できなかった。厭とか厭ではなかったとかそういう問題ではないのだ。相手の意思の尊重というものがある。 「彼は皆にとても好かれている。そしてキミも少なからず、彼を好いている。違うかい?」 「……好いているといっても、それが恋愛感情だとは限らないだろう」  ハーデスがそう言うと、ヒュトロダエウスが立ち止まったので、つられて足を止め振り返る。律儀に歩調をあわせてやる必要はないのだが、一度止めた足をまた動かすにはなにか理由が必要な気がして「どうした」とため息をつく。 「それならキミは、彼に恋の相手として好きだといわれたら、どうするんだい」  考えないようにしていた可能性を、真剣な口調で突きつけられ、ハーデスは口をつぐんだ。  いまだ信じられないが、事実としてあれは恋人にするような行動だ。  親愛の証として仮面にキスをすることはあるが、唇への接吻はまず、ない。そのためには素顔を見せる必要があるし、仮面を外すのは家族の前などごく近しい相手に限られる。親友であるヒュトロダエウスの素顔さえ、ほとんど見たことはない。面白がって外したりするようなやつでなければ、今も知らないままだったであろう。  あいつに、想いを寄せられているとしたら。 「…………断る、だろうな」 「おや、意外だなあ」 「そういうことを求められても困る」 「そういうこと? ああ、セックスかい?」  ハーデスは危うく躓くところだった。 「……声を落とせ、ヒュトロダエウス」  あたりに人がいないことを確認しながら、非難めいた口調で言ったが、ヒュトロダエウスはどこ吹く風で話を続けた。 「彼に伝えればいいだけじゃないか、そういうことはできないと。恋人同士だからといって、必ずしも肉体関係を結ぶとは限らないだろう?」 「……それは、恋仲になる意味があるのか?」 「価値を決めるのは当人だからね。関係性はひとそれぞれさ」  恋人の定義も、それぞれということか。  ハーデスは思案した。正直なところ、キスは厭ではなかった。それに求められても困るとは言ったものの、肌をふれあわせることに、嫌悪感があるわけでもなかった。だがそもそも勃つかどうかという問題もある。  肉体的な結びつきを求められないのであれば、どうするか。断る理由は、まあ、強いていうほどない。他に好いた相手がいるわけでもなく、婚姻のような強いつながりとなるわけでもない。  しかし恋愛感情はないというのに、無駄な期待をもたせることにはならないだろうか。もしもいずれ、仮にだが、他に好いた相手ができたとき、だから別れようというのは、あまりに薄情がすぎるのではないか。とはいえそれは、好いた同士であってもあり得る話だ。  何ならもしかするとあいつ自身が先に、私に飽きるかもしれない。  ハーデスには、そう考えるとしっくりときた。  そもそもなぜ好かれるのかわからない。あの男はヒュトロダエウスが言うように引くてあまただ。目に見えない引力のようなものが、あの男を中心に渦巻いているかのように惹かれている。  ハーデスとヒュトロダエウスにはそれが《《視えて》》いた。ひとを惹きつけてやまない、たましいの輝きが。 「……あいつが、誰かひとりのものになるところを想像できるか?」 「フフ、それはつまり、独占したいということかな」 「誰もそんなことは言っていない」  ただ、なぜ自分だったのか、わからないだけだ。  それは当人に訊かなければわからないことで、今はまだあのキスが本当に恋愛感情によるものだったのかさえ、不確定事項だ。そもそも予測がつかない行動をするやつなのだから、特に意味はなく好奇心によるものだと言われても不思議ではない。 「ワタシの主観的な見立てでは、キミたちはとてもお似合いだと思うけれど」 「……お前の眼もいよいよ曇ったか?」 「辛辣だなあ、思ったことを言っただけなのに」 「あいつには……もっと相応しい相手がいるだろう」 「相応しいかどうかは、彼が決めることだよ」  そんなに友人同士をくっつけたいのか。いや、くっつけたいに違いない。その様子を視てからかいたいのだろう。ハーデスはそう結論づけた。誰があの魂にふさわしいというのか。  だがヒュトロダエウスは、ハーデスが予想だにしなかったことを口にした。 「キミにそのつもりがないなら……ワタシにもチャンスはあるのかな」  その言葉はまるでひとりごとのようでもあった。いつも捉え所のない、冗談のような軽い口調ではなす声が、どこか本気めいた色をみせたので、ハーデスは思わず息を飲んだ。  ヒュトロダエウス。創造物管理局局長にして己よりも先にエメトセルクの座に推薦された男。その本質と真実を見抜く眼は、同じ種の眼をもつハーデスも一目を置くところだ。  なるほど確かにこいつなら、という思いがよぎる。  何故か心がざわめいた。 「……お前は相手を増やしすぎだ。あいつにまで手を出すつもりか?」 「おや、いけないかい? 彼が望むなら、彼ひとりだけを愛するし、ワタシは彼のたくさんいる相手のうちのひとりでも構わないよ」  ヒュトロダエウスは微笑みながら言った。  発破をかけているつもりか。それとも。 「……本気なのか?」 「本気だとも」  嘘か真か、ヒュトロダエウスは含み笑いを隠さなかった。ハーデスは「そうか」と言う他なかった。私には関係のないことだと。選ぶのはあいつだ。横からどうこう言える立場ではないのだと。  これが恋人同士であったなら、独占する権利でもあったのだろうか。あったとしてそうするだろうか。いやそれでも彼の意思を尊重するだろう。  自分の意思を訊かれたなら?  ハーデスにはわからなかった。そもそもあの男に抱いている感情が、本当に友情だけであるのか、自分でさえよくわかっていなかったのだから。 「……どうだい? ワタシにしてみるというのは」  ヒュトロダエウスがハーデスの背後に声をかけると、街路樹のかげから、その男はあらわれた。 「あ……その。盗み聞きするつもりはなかったんだ」  彼はばつの悪そうに頬をかきながら、ハーデスを直視できずに顔をそらした。  ハーデスもまた同じように身の置き場のなさを感じて目をそらした。ヒュトロダエウスはこの男がいることを知っていたのだろう。知っていて色々と答えさせたのだろう。あるかどうかもわからない恋愛感情を想定して、好き勝手に話したことを聞かれてしまったことに、罪悪感を覚える。  気まずそうに沈黙したふたりに対して、ヒュトロダエウスはいつもの調子で微笑みながら、彼に歩み寄り、すれ違いざまに小さくささやいた。 「返事はいつでもいいからね、今度、聞かせておくれ」 「あ……う、うん……」  耳元を唇が掠めるように通りすがってから、彼はぶるっと甘い余韻に身を震わせた。  それをみたハーデスは、仮面の下で無意識に眉をよせた。すぐに断らなかったということは、まんざらでもないということか。自分には関係のないことだというのに、なんとなく、引っかかりのようなものを覚える。 「…………何か、言いたいことがあったんじゃないのか」  待ち伏せのような形で居住区への帰り路にいたのは、そういうことだろうと予測する。 「謝りたくて……さっきは、ごめん」 「……なぜあんなことをした?」 「それが、僕にもあまりよくわからないんだ。気付いたら君に——キスを、していて」  気付いたらキスを? そんなことがあってたまるか。  ハーデスは口元をひきむすんだ。仮面に隠れていても、顔をしかめているのは誰の目からみても明らかだった。 「いや。ちがう、たぶん……そう、僕は君が好きだったんだ」  ほとんど泣きそうな、詰まったような声が出る。喉をこみあげてくる熱をごまかすように、彼は矢継ぎ早に言葉を重ねた。 「君が好きだった。君の素顔を見たいと思った理由がそうであると知らないまま、君の目の形を、眉を、鼻筋を、見た。そうしたら、もう、吸いこまれてしまったんだ。信じられないかもしれないけれど、真実なんだ……この不埒な行動の責任をとらせてほしい。君の言う通りする。近づいてほしくないというなら、そうするし、もう二度と街には戻らない、というのでもいい、僕は市民にはふさわしくないようだから——」 「おい、少し落ち着け」口早に結論を急いだ彼の肩をハーデスがつかむ。 「お前がそこまでする必要はない」 「でも、僕はっ」  ハーデスは彼の仮面を奪った。  真っ赤に充血した瞳があぜんと丸くなったのを見ながら、己の仮面もずらして、多弁な唇をふさいでやる。 「これで相子だろう」  速やかに仮面をつけなおしてやりながら、ハーデスは、慣れないことはするものではないと思った。ほんの仕返しのつもりでもあったが、彼の耳までもが赤くなっているのを見て、つられて熱があがっていた。 「……相子には、ならないよ。君は僕にキスをされたら厭だろうけれど、僕は嬉しくなってしまうのに……」 「別に……厭だとは思っていない。驚いただけだ」 「そんなこと言われたら……勘違いしそうになる……でも、うん、君の気持ちはもう聞いたから」  彼はハーデスから一歩後ずさり、笑みを作ろうとして失敗したかのように、顔をくしゃっとゆがめた。  断るというのを聞いたのだろうと思い当たったが、けれど訂正するほどの理由もなかった。ただハーデスは、彼の傷ついた様子をみて、こいつでもこんな顔をするのか、という罪悪感の奥に、なにかすっとした感情がわきだしたことを自覚して愕然とした。この男を傷つけたことに——悦びのような感情を抱いている。 「許してくれてありがとう、ハーデス……それ、じゃあ。また」  ハーデスの胸にとげのようなものを残して、彼は去っていった。  あれから、ハーデスの日常に特に変わりはなかった。  あの男との距離感も、以前と何ら変化はない。顔を合わせれば、他愛のない会話を交わすくらいはするし、ときどき旅に出ているのか見かけないこともあるが、帰ってこないことはなかった。ただなんとなく、精神的な隔たりが生まれたように感じたが、気のせいであるとも言えた。仮面越しの表情は読みきれないが、少なくとも声音はいつもの調子だ。エーテルも深くまで覗き視ようとは思わなかったが、表面上は気にするような揺らぎもない。  これはおそらく、自分自身の問題であると、ハーデスは考えた。自身の内にわだかまりのようなものが残っているから気まずく感じるのだ。そのわだかまりが一体何であるのかはわからないが——あるいは認められないのか。  ハーデスは、思考に蓋をして見ないフリをすることに決めていた。何であれ、ほとんどの感情的な問題は、いずれは時が解決するものだ。あの男にしてもそうだ。恋情にすっぱりとけりをつけているにせよいないにせよ、いずれは忘れるに違いない。そうあるべきだとさえ思う。  ——その光景を見たとき、ただちに踵をかえして見なかったことにできていれば。  街の一角にある公園は、ハーデスがよく訪れる場所だった。きれいに整えられた芝生は寝転ぶのに心地よく、風通しもいい。昼間は多少太陽をまぶしく感じたり、子を連れた家族の喧騒もあったりとにぎやかだったが、日が暮れてしまえば、夜の星と街灯のやわらかな光に照らされながら、静かでおだやかな時間を過ごすことができる。  夜は夜で恋人たちが点々と、ひそやかに愛を語り合っていたりもするが、隅で寝ているぶんには関係のないことだ。  ハーデスはいつもどおり、他人から離れた芝生をさがして公園を横切ろうとした。 「…………よ、……ヒュトロ……」  前方から聞き覚えのある声がして、思わず足を止める。そして後悔した。  芝生に腰をおろしたふたりの背中のうち、一方がもう片方に顔を寄せ——キスをした。少なくともハーデスの目にはそのように見えた。偶然にもそう見えただけなのかもしれない。それくらい一瞬の出来事だった。  なんでもない、なんでもないことだ。そう、仮にキスをしていたとしても。  だがハーデスは、立ち去ることも、声をかけることもできず、ただ立ちすくむことしかできなかった。 「……こんな、ところで」 「フフ、恥ずかしがることはないよ。みんなこっそりしているから」 「でも……僕はこういうことに、慣れていなくて」 「そのようだね。個室にふたりきり、よりはいいと思ったのだけど」  ささやくように交わされる甘やかな会話は、恋人同士の睦み合いに他ならない。ハーデスは少しはなれた背後で棒立ちになりながらそれを聞き続けた。 「僕は、個室のほうが落ち着くと思う……」 「それって誘い文句のようにも聞こえるけれど、気づいていたかな」 「さ、誘い文句?」 「キスより先に進みたくなってしまうだろう?」  鈍感な彼でもそこまで言われれば意味を理解した。抱えた膝に口元をうずめて、恥ずかしそうに身を縮こませる。 「キスはだめでも、その先ならいいのかな」 「っ……ヒュトロ……」  ヒュトロダエウスの指が、彼の顎を持ち上げてくすぐった。  またキスをするかのように顔をよせて、こつんと仮面同士が当たる音が立つ。唇はぎりぎり触れ合わない距離だった。 「こんなに初心なのに、キミからキスをするなんてね」  かすかな潜めき声だったが、ハーデスは聞き取った。 「……自分でも信じられないよ」 「そろそろ慣れてきたかい?」 「ぜんぜん……だめだ」 「いっそしてしまえば、気にならなくなるかも」 「…………やっぱり、キス、は」  彼が顔をそむけると、ヒュトロダエウスは何事もなかったかのようにさっと身を離した。 「無理強いはしないよ。キミがその気になるまで待つさ」 「その……ごめん、恋人、なのに」 「キミがワタシと交際してくれているだけで、今は充分だよ。それがハーデスを忘れるためだったとしてもね」  ハーデスのだらんと垂れ下がった指先が、ぴくりと反応する。 「……君のことを、好きじゃないわけではないんだ。最初は確かに、そういう気持ちはなかったけれど、恋人として隣にいるとドキドキするし、キスをしたい、とも思う……そ、それより先のことも……でも、今は……」 「わかっているよ、キミの気持ちは。きっとまだハーデスとのキスを忘れたくないんだろう? はじめて、ってそういうものだからね」 「ん……でも、忘れないと……」  ヒュトロダエウスが彼の肩をそっと抱きよせると、彼はおとなしく身をあずけた。 「キミがもっと押せば、ハーデスも気が変わると思うのだけどなあ」 「……嫌われたくない。僕は彼といい友人でいたいんだ」 「いきなりキスしたって嫌われなかったのだから、自信を持つべきじゃないかな」 「どうしてそんな……僕はもう君の恋人なのに」 「キミという愛しい人の幸せを願うのは、当たり前のことだろう?」 「ハーデス、と、そうなったら、ヒュトロは……」 「うん? 別にどちらかを選ぶ必要はないよ。恋人がふたり以上いてはいけないなんて決まりはないからね」 「た、たしかに、そうだけれど」  そのような関係も珍しくはない。ただ恋愛という事象に、今までほど遠かった彼にとっては、想像がしにくいことだった。ひとりでもいっぱいいっぱいな気がするのに、ふたりと恋人になるなんて心臓がもたないのではないだろうか? 「キミはいやなのかい? ワタシとハーデス、ふたりの恋人になるのは」 「いや……じゃない、でも……それは少し、贅沢すぎるような……」 「ワタシは彼と一緒にキミを愛でたいなあ」 「ハーデスが、どう思うか……そ、そもそもそんな気持ちは抱いてくれないと思うけれど」 「……もし彼がキミの恋人になるかわりに、ワタシと別れるように言ったら、キミはどうするんだい?」 「そ、れは」  彼は一瞬、言いよどんでしまったが、現在の恋人であるヒュトロダエウスを優先するに決まっていた。どちらがより好きであろうと、それが誠実な在り方だと思ったし、それで後悔するくらいなら、そもそもヒュトロダエウスと恋人になったりなどはしなかった。  今となっては、本当にヒュトロダエウスのことが好きなのだ。さまざまな人が、かれに想いを寄せている理由がよくわかった。かれはやさしく紳士的だった。おだやかな物言いは聞いていて心地がよく、なにもかも見透かすようなまなざしに見つめられると、ときに落ち着かない気持ちにもさせたが、すべてわかっているよ、と言うような安堵の微笑みがたえないことで中和されていた。仮面越しにもわかる整った目鼻立ちには、外見を特別視しないとはいっても心臓が高鳴った。  だが彼が「君の恋人でいるよ」と答える前に、ヒュトロダエウスは自信たっぷりに口を開いた。 「フフ……もちろん、ワタシを選ぶだろう? ハーデスは夜のことにも慣れていないし、きっとワタシのほうがキミを満足させられるよ」 「は、え……その、僕は……」  ハーデスの硬直していた手足に血流が戻った。  よくもまあ好き放題いってくれたものだと激情が身をほとばしる。 「恋人になるかわりに別れろだと? そんなことを私が言うと思うか?」 「は、……っ、ハーデス⁉︎」  彼は驚きのあまりびくっと飛び上がった。  ヒュトロダエウスだけが、にやにやとすべてわかっていたような笑みを浮かべている。 「やあ、健勝そうで何より。親愛なるエメトセルク」 「お前……仕組んだな。まさかこいつを口説きにかかったのもこの為か? だとしたら——」 「まさか。ワタシは彼の恋人という立場を譲る気はないよ。もちろんキミもそうなるというなら、大歓迎だけれどね」  ハーデスは頭をかきむしりたくなった。  ヒュトロダエウスは、ハーデスがこの公園を気に入っていることを間違いなく知っていた。仕組んだなという言葉に否定もしない。明らかに愉快犯だ。思い通りになっていることが非常に腹立たしい。 「あの、ハーデス、僕は、君がそんなことを言うわけがないってわかっているよ。迷惑をかけるつもりはないんだ、本当に」 「…………付き合うとしても、別れろなどと言うものか」 「あ、う……うん。そう、だね」  彼は混乱したままうなずいた。 「いい加減、自分の気持ちに素直になったらどうかな」 「余計なお世話だ」  ハーデスはそう言いながら、彼をはさむようにどかりと隣に座った。あぐらをかいていかにも不本意そうな態度は《《エメトセルク》》らしさのかけらもなく、ヒュトロダエウスがくすくすと笑った。 「こんなもの、取ってしまったらどうだい。……えい」 「おいっ、返せ……!」  《《エメトセルク》》から仮面を奪ったヒュトロダエウスは腕を高くかかげ、取り返そうと手を伸ばしたハーデスを躱した。 「悪ふざけがすぎるぞ、……っ!」  ちゅ、とわざとらしい音がなる。  ふたりの様子をあっけにとられて眺めていた彼は、あんぐりと口を開けたが、それ以上にハーデスは絶句した。用は済んだとばかりに仮面を押し返されても、身につけなおすことを忘れるくらいには。 「見てのとおり、たった今彼とキスしたところだけれど、これならキミに口付けてもいいかな? 間接キスということで。ハーデスとキスするのなら構わないだろう?」 「え……? は……え……? う、うん?」  ずいっと身を寄せてきたヒュトロダエウスに、たじたじとしながら彼はいきおいに負けて頷いた。  ヒュトロダエウスは、彼に正気に戻る暇を与えまいと、一方的に仮面を奪い取るやいなや、食らいつくように口付けた。 「んっ……ぁ……ふ……」  舌こそ差し込まれていないものの、触れるだけのキスとは一線を画した、色めいたついばみが繰り返され、彼の上唇も下唇もおなじくらい堪能された。  さらに口づけが深まろうとしたとき、ハーデスが彼のフードをぐっと引っ張り、ヒュトロダエウスから引き剥がす。 「うっぐ……はーで、んむっ」  めまぐるしい状況変化に目を白黒とさせる彼を、ハーデスが抱き寄せ、吐息に湿った唇をふさいだ。  閉ざされた彼の唇を舌先でつんと突いてやると、彼はおそるおそるといった様子で口唇をひらき、深いキスを受け入れる。  ちゅくっ、といやらしい音が立つ。  一度はじめれば夢中になるしかなかった。ハーデスは、もっと早くこうするべきだったのだろうと思った。おそれていたのだ。臆病だったのだ。彼の特別な存在となることを。彼の自由を妨げる枷となってしまうのではないかと。あるいは置き去りにされるのではないかと。  だがそれを上回る焦燥にかられた。  いつからあいつを愛称で呼ぶようになった? 交際をはじめたのはいつからだ? 本当に一度もキスはしなかったのか? 床が上手いのが好みか?  浅ましい感情がつぎつぎと湧き出てくる。これを消化するにはこの男をものにするしかないという確信があった。咥内を舌でねぶられる感覚にふるえる彼を抱いていると、肉体的衝動が高まる一方で、焦燥は晴れていった。 「ハーデス。それ以上は部屋で、ね」  ヒュトロダエウスになだめられ、ハーデスは名残惜しげに彼を離した。 「んぁ……はぁ……はぁ……な、にが、なんだか……」  彼は依然抱きかかえられたまま、喘ぐように息をする。  ハーデスはその火照った耳に唇をよせて、熱い息をふきかけた。 「…………お前に、欲情した」 「は……、っ、ハーデス、……ッ」  そう言ってやるのが、一番わかりやすいと判断した。  仮にそういう関係になっても《《セックス》》はできない、と言ったことを取り消す必要もある。  彼はますます茹で上がったようになり、自力で立ち上がろうとしたものの、腰が抜けてしまったらしく、芝生に座り込んでしまった。いや、股間をさりげなく隠しているあたり、違う理由だったのかもしれない。 「ワタシのこと忘れていないかい」  ヒュトロダエウスは、いつもよりもなれなれしくハーデスの肩に腕を回した。ワタシのほうが先に彼の恋人だったんだよと暗に訴えている。 「そもそもこうなるのを見越して謀っていたんだろう」 「キミが素直になればすむことだったんだよ、意地っ張りなエメトセルク。とはいえそうでなければ、彼には振り向いてもらえなかったかもしれないからね。感謝しているよ」  ハーデスは厭そうな顔をした。しかし彼が愛したというのなら拒めるわけもない。それに断じて認めたくはなかったが、相手がヒュトロダエウスなら、という思いもあった。 「…………先は譲れ」 「仕方ないなあ、他ならぬキミの頼みだ。ワタシの理性に感謝してほしいな。まあ、キミたちは初めてだし、それにワタシのは、はじめてだと少しつらいかもしれないからね」 「あ……その、ふたりとも……ま、まだ心の準備が……というか状況に頭が追いつかな……」 「大丈夫。ワタシがついているから、痛い思いはさせないよ」  そういう問題じゃない、という彼の叫びは、転移魔法にかきけされたのだった。