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Lacrimosus

 《《彼》》を目前にしたハーデスは、今すぐに膝をおって祈りをささげたい気持ちになった。ひざまずいて、あつくなる目頭を伏せて、拳をにぎりしめて、頭を地面に擦りつけてしまいたかった。  だがハーデスはどうにか持ちこたえて、彼と対峙した。  厳かな祭壇より身を起こした彼に、なんと言葉を投げかけようか。この思いをあらわすには、どんな言葉も相応しくないような気がして胸につっかえる。 「……ハーデス」  かわりに彼は、なんとも穏やかな表情で、ハーデスの記憶と寸分たがわぬ声をして、真名をよびかけた。  その名を呼ばれるのはずいぶんと久しぶりのことで、ハーデスの胸にいよいよ熱いものがこみあげてくる。とうに涙など枯れ果てたと思っていたが、あるいは《《なりそこない》》と交わりすぎて、感情に振り回されやすくなっているのやもしれなかった。だが、それは感覚的なものであって、現状肉体を持たぬハーデスの目から、物質があふれることはありえない。その制約をもってして漸と、彼と向き合うことができたが、あいかわらず言葉は出てこなかった。 「……久しぶり」  ハーデスは目をそらしながら「ああ」と返すことで精いっぱいだった。  長かった。本当にながい道のりだったのだ。ほとんど永遠の命を持つ、真なる人であっても、気が狂いそうになるほどの。それは孤独という悪夢にさいなまれたが故ともいえるし、あるいは《《なりそこない》》とよぶものたちと混じり、ともに飯を食らい、たたかい、わずらい、老いて、死を見送り、また子をなしたことさえあるのは、一万と幾千年の寂寥に耐えかねたせいであったかもしれない。だがそうしてこころに抱いた情ごと、失望の波にさらわれて、ハーデスは揺らめきながらも、だれより頑なに、在りし日を追い求めつづけたのだ。  そこにはもう単純な、かがやかしき日々への郷愁ばかりが残っているわけではなく、星の管理者たる者として、欠けた者たちを、あらたな世界の守り人に値しないと判ずるのも、半分は、そう自分自身に言い聞かせているだけに過ぎないのだと、ハーデスはなかば自覚していた。  かれは途方もない時間に精神を磨耗させぬよう、たびたび眠りについて、体感時間を減らしたが、ひとたび目を瞑れば、闇の中に同胞のすがたが浮かびあがった。それが創造神による霊的な影響であるにしろ、ハーデス自身の心理的重責からうみだされた幻影であるにしろ、かれらは闇の淵からささやくのだ。  ——ああ、冥き海をつかさどる我らが同胞よ、此処は暗く、星光の一筋も通らず、海底の澱のように闇がしずむ霊獄のようだ。どうかこの身を救いたまえ。この御魂を星の海に還したまえ。  神に身をささげた者たちのなげきの声が、ハーデスに使命と責務を思い起こさせる。絶望にうちひしがれ、地に斃れかけようとも、真の眠りにつくことは許されぬ。  そうしてぼろぼろに擦り切れかけた精神をかかえながら、長い、永い時を経て、漸との思いで、この結末にたどりついたのだ。  戒律王の権能において最初によみがえらせた男は、ハーデスがただの一度も幻影に映すことのなかった人物であった。その理由は名状しがたい憧憬や、ともすれば慕情とも言い表せられる、執着にも似た感情によるものから、かつての彼を再現できるように思えなかったからだ。なにより、かの男は、ハーデスの冥界をみとおす眼や、その親友であるヒュトロダエウスの、真理をつらぬく眼でさえも見えぬ、なにか引力のような存在感を纏っている。どんな者もこの男には、それが好悪いずれにせよ、惹かれずにはいられなかった。この魂をもって転生した男は——ハーデスにとっては幸いなことに——第八霊災においてその命を散らしたが、もしも生きていたとしたら、これ以上の脅威はなかったであろう。彼は滅びかけた世界で朽ちてなお、ひとびとを照らす希望の灯火であり、その光に賭けた者たちが、真なる人でさえなしえなかった技術を生み出しさえしたのだ。もっとも《《この世界》》のハーデスにとっては、何ら関係のない事柄ではあったが。  ともかくこの男の魂は、特別だ。  いくつに分かたれていようと、その色を見紛うことはありえない。だからこそハーデスは彼を直視できずにいた。 「……お前は、どこまで覚えている」  ハーデスは肉体の枷に縛られていないはずの精神から、喉がからからに渇く感覚を覚えた。 「ハーデス。君の心配していることはわかるよ。僕が本当にかつての僕であるかどうか……それが知りたいんだろう」  それこそが、ハーデスのもっとも恐るる自身への問いかけであった。すなわち図星を突かれたかれは、はっとして彼に目を向けた。まっすぐな彼の瞳の感情は読めないが、その魂の色を、視てしまった。 「……お前、なのか」 「僕が僕であるかどうかなど、僕自身には証明しようがないけれど、君がそう思うならそうなのだろう」  いくつに分かたれようと見紛うことのない魂だ。すべての鏡像世界が統合された今、欠けることなき真なる魂がいま目の前に在る。  疑念が完全に払われたわけではないが、彼でないと判ずるには、そのかがやきも、言葉も、姿かたちも、何もかもがあまりにも彼そのものであったし、そしてハーデスはひどく疲れきっていた。  彼がそっと祭壇から足をおろし、踏み出したのをみて、同じだけ後ろに下がりたい気持ちと、今すぐにすがりつきたい気持ちとで、ハーデスは微動だにできないまま、伸ばされた彼の手に頬をつつまれた。とはいえ肉体なき今、それは触れる仕草をされただけのものであったが、皮膚の下に流るる、あたたかなエーテルは確かに感じ取れた。  ついに、決壊した。  ハーデスはその場に膝をつくより他なかった。  彼はとなりに座り、肩をよりそわせた。祭壇に身をあずけて、地に目を落とす。ほのかな灯火に照らされた影がひとつゆらめいている。  辺りはとても静かだった。ハーデスは、本来の肉体を構成しなおすよりも先に、なによりも先に、彼をよみがえらせたのだった。外には他の同胞もいるのだろうか。彼にはわからなかった。なにしろ久しぶりとは言ったものの、彼の記憶では、ハーデスと会ったのは実に最近のことなのだ。だが完全に——あの日のまま時が止まっているというわけでもなかった。うすぼんやりとした、記憶とも夢とも言いがたい認識ではあったが、自分のたましいが十四に分かたれ、それぞれが転生を繰り返してきたことを知っている。そしてながい年月を経て、分かたれし世界とともにひとつに統合されたことも、自分が神の力によって、他のいのちを代償に、再構成された存在であることも。  ハーデスは言葉を失くしたまま、組んだ両手を眉間に押し当て、ただうなだれている。 「……私を責めないのか」  その声はふるえていた。心のゆらぎがそのように伝わったのだ。後悔とも懺悔ともつかない、あるいは悔恨そのものであり、同時にそのような気持ちを抱くことに罪悪を感じている。非難を恐れながら、同じくらい糾弾されることを望んでいる。  なぜならよみがえりし彼は、あらたな生命を犠牲にして、同胞を復活させることに、決して肯定的ではなかったからだ。  彼は十四人委員会と、ヴェーネス派のいずれにも与しなかった。神にすがることそのものが間違いであると、両者に異をとなえた。  神にささげられし命は、神そのものごと冥界に還すべきであると主張し、またかの神を滅ぼさんと、あらたな神を生み出し、人同士で争うなどというのは、もっとも愚かな行為であると断言したのだ。  しかし、幾星霜を孤独に戦いぬき、悲願を達成しながらも、青ざめた顔で打ちひしがれる友を前に、どうして過ちを非難することができるだろう? 「ハーデス……」  彼はこれ以上ないほどにやさしく名を呼んだ。ハーデスの緊張がつたわってくる。尽くしたい言葉はやまほどあったが、慎重に言葉を選ばなければならない。 「僕には、君を責めたいとおもう気持ちはない……これは同情でもなんでもなく、心からそう思っている」 「……なぜだ。私は、お前の意思を知っていながら、お前を《《創造》》したんだぞ。その意味がわからないわけでもあるまい」 「ハーデス。僕は死者……だった。今もそうかもしれないけれど。どのような選択をするのかは、生きている者たちにのみ委ねられているのだから、僕は君の意思を尊重する。君がそれだけ僕に生きてほしかったのだという、その想いを」 「果たして、《《生きている》》といっていいものか」ハーデスは自嘲するように言い放った。 「亡霊のようなものだ。星の理から外れながら、正しき理から生まれた命を、数えきれないほど殺めてきた。それでもお前は私を肯定できるのか」 「それは生ける君の執念によるものだ。君が僕を僕だと認識するように、僕も君を君だと認識している。それを、生きているといわずして何と言う」 「……誰が、お前を《《あいつ》》だと認識していると言った」  ハーデスが顔を上げて彼を睨めつけた。  彼は苦笑いした。性根が不器用なところは、一万年の時を経ても変わっていないらしい。 「君は、僕に否定されることで、僕が本物であると証明したいのかい」 「……否定、するはずだ。お前なら」 「それは違う。君自身が、君の所業を否定しているから、否定されるだろうと、あるいはされたいと思っているだけだ。でも僕は偽物だと思われようと、存在を消されてしまおうと……君を責めたりしない」  彼をにらむ顔が、一瞬、何かを堪えるかのようにくしゃりと歪んだ。 「……失敗か」  ハーデスがゆらりと立ち上がり、その身のうちに魔力が燃えさかる。ひとつの生命を消しとばすには、充分な質量のエーテルだ。その手が脅すように彼に向けられる。  だが怯えているのはハーデスのほうだ、と彼は思った。彼を見るハーデスの目の、なんと痛々しいことか。  殺されるのならば、それはそれで構わない。ハーデスの思う通りの《《彼》》を演じるつもりはない。この心がなにがしかの存在によって、都合よく創りかえられているのだとしても、気持ちを偽るつもりはなかった。 「君のしたいようにしてくれ。ハーデス」  彼は抱擁するように両腕をひろげた。  ——結局、ハーデスは、腕をだらんと下ろした。  もとよりハーデスは、神の力によりて死者がよみがえるなど信じてはいなかった。所詮は、創造魔法で生みだされた器が、それらしい記憶と人格を有しているだけのまがい物だ。魂が同じであろうと、転生した魂が彼ではないように、どんなに似ていたとしても別人である。  それでも、彼は、あまりにも彼そのものだった。まがい物にすぎないのだとしても、みずからの手で破壊するには、彼の存在は、ハーデスにとって思い入れが深すぎた。そして彼が本物なのか偽物なのか、あるいはまがい物だとしても、そこに何の問題があるのか、わからなくなってしまったのだ。 「……僕を還さないのかい」 「勘違いはするな。お前を、あいつだと思っているわけじゃない」 「それでも、僕は嬉しいよ。まだ君とこうして話せることが」  彼はあくまで素直に自分の気持ちをのべたが、ハーデスはまるで、忌々しいものでも見るかのように眉をひそめた。偽物とみている存在が、本物らしく振る舞うほど、かれの神経を逆撫でするらしい。それだけ、ながい時のなかで、絶望というものを味わってきたのだろう。 「君を抱きしめられたらいいのに」  彼の目には、ハーデスが、行き場をうしなって、途方に暮れているように見えた。  きっと寂しかったのだろう。悲願を達成しても、在りし日を取り戻しても、かれの時はあの日のままではない。かれはいまだ孤独なのだ。 「君自身の身体は創造しないのかい」 「……そのつもりはない」 「それならこれからの君はどうするんだい」 「さて、な」  ハーデスは視線をそらして肩をすくめた。はぐらかしているのではないことは、彼にはすぐにわかった。何も決めていないか、想像することさえできないのかもしれない。同時に彼は懸念した。目的を達成したとして、ハーデス自身に、未来を生きようという気があるのだろうかと。 「ハーデス……君が本当に還したいと思っているのが、君自身ではないのか。もしもそうであるなら、そのときは、僕も共に連れていってくれ」  ハーデスは図星を突かれたような表情をした。 「僕を創造した者としての責任だ。まさか死者をよみがえらせておいて、あとは好きにしろ、なんて君が言うことはありえないと思うけれど」  いっそ挑発的な物言いですらある、と感じたハーデスは絶句した。その様子を気に留めることもなく、彼は言葉を続けた。 「還りたいという願いそのものを否定するつもりはない。ただ、結論を急ぐべきではないと思う。君はひどく疲れているんだ。心身を休めて、それから考えたって、遅くはないだろう」  おだやかに諭すような声音の奥に、傲慢さが見え隠れする、そう感じとる心こそが、己が《《なりそこない》》と呼ぶ生き物に、交わり影響された末の思考なのか。それとも我ら真なる人の驕りを自覚したとでもいうのか。だが、彼の言うことは一理ある。幻影にすがらざるを得ないほどに精神が消耗していることを、自覚していないわけでもない。 「君が為してきたことを知りたい。話してくれるかい」 「……いいだろう。聞いたことを後悔するなよ?」  ハーデスは世界が分かたれてから、統合にいたるまでの、長きにわたる道のりを語った。  それはまさに殺戮の歴史だった。生きとし生ける者のほとんどが、かれらアシエンの策謀によって滅亡したのだ。そのどれもが直接的に手を下したわけではなく、まかれた種に水をまき、争いの芽を育て、災厄の花を咲かせたのが、欠けた人々の行いであったとしても、ハーデスは、言い分を主張することもなく、ただ淡々と事実をのべた。  となりで話を聞く男は、まがいものであったとしても、その精神性は間違いなく、真なる人だ。彼は、ハーデスが《《なりそこない》》と呼ぶ命でさえ、自分たちと同じ尊い命であると言うような男だったが、犯した罪を感情的に糾弾することもなく、かといって不必要な慰みを口にすることもなかった。  神に懺悔するような気持ちとは、このようなことを言うのかもしれない、とハーデスは思った。真なる人にも、分たれし人にも、創られし神にも縛られぬ彼であるからこそ、他のだれよりも先に蘇らせたのだろうか。審判が下されることを願って、こうして罪を告白しているのだろうか。 「——八度目の次元圧壊では、予想をこえるほどの災厄が発生した。黒薔薇とよばれる兵器に起因する終わりなき戦乱だ。国はことごとく滅び、星の環境は狂い、わずかばかりの食糧や生息域を求め、誰もが武器を取らずには生きられなかった。この時ばかりは、我々は終戦にも手を尽くさねばならなかった。統合が進むほどにハイデリンの力は弱まったが、その弊害で、我々に対抗する《《光の使徒》》が生まれなくなり、星暦への導き手が欠けていたからだ」  ハーデスは——呼吸というものを必要としているわけではないが——ひと息つくように、いちど言葉を切った。  自らの手で滅亡させた文明を、ふたたび破壊するため再生させる。やっていることはその繰り返しだ。なりそこないの存在であろうと尊ぶお前ならば、さあ、非難してみせろ。  しかしそんなハーデスの願望とは裏腹に、彼は眉を潜めることもなく、むしろ、だらんと投げ出された掌に己の手を重ねあわせたのだった。触れ合わぬそこから、あたたかな体温が伝わるような気がして、ハーデスは今すぐにも振り払いたくなった。物理的な干渉がかなわぬ、そのかわりに、冷笑を浮かべてみせる。 「……その災厄では、希望の灯火と謳われた英雄も死んだ。その男はハイデリンの使徒のなかでも特別厄介だった……なりそこないとも、真なる人とも異なる、人ならざる者として《《進化》》しかけていたと言える。奴はナプリアレスやイゲオルム、そして間接的ではあるが、私と同じくオリジナルとして生き延びていた、ラハブレアをも滅ぼした」  彼の手がぎゅっと握りしめられ、石床に積もったほこりや砂利に、指の線がのこされた。 「皮肉なものだな。私をハイデリンの一撃から救ったお前が、私たちの敵として立ちはだかっていたとは」 「…………ハーデス……」  しぼりだすような声はそれ以上の言葉を生まなかった。  ハーデスは彼の苦しむ様子に胸のすくような思いを抱いた。  だが彼は知っていた。本当に苦しんでいるのは、ハーデス自身に他ならないのだということを。  《《あの時》》——ハーデスを救ったときから、オリジナルとして生き延びたかれは、責務という呪いに縛られ、その深い情とのはざまで傷ついてきたのだ。結果的にかれをそのような霊獄へ、孤独へ突き落としてしまった事実こそが、彼の心臓に罪の楔をうちつけた。  根がまじめとは、かれの親友の評するところだが、まさしくその通りで、あの時代に生きていたすべての命を背負わざるを得なくなった、ハーデスの心境などは、察するに余りある。 「だが、最大の障害であった英雄は死んだ」  ハーデスは冷笑をひっこめて、歴史の続きを語った。 「その男の仲間が、時空転移の理論を完成させ、およそ二百年後に実現させたようだが、その先は失敗したか——、あるいは、こことは異なる並行世界を《《救った》》に過ぎないのだろう」  そうでなければ、時間の跳躍を行った時点で、この世界は消えてなくなっていたはずだ。しかしクリスタルタワーが転移に成功し、消えた今でも、この世界は紡がれたままだ。 「偏ったバランスは、エリディブスがヒトを先導することで均衡を取り戻したが——とある男があらたな障害となった。名をゼノスという…………私の曽孫にあたる男だ」  これには彼も少なからず驚いたようだった。  ハーデスはなんともいえぬ、居心地の悪さを覚えた。 「ゼノスはかの英雄との戦いのさなか、黒薔薇によって英雄もろとも生き絶えたが、奴はなりそこないでありながら、不滅なる者としての能力を有していた。……結果的に、エリディブスもまた奴との戦いで滅された」  ハーデスは、ため息をひとつ吐く素振りをした。  かれが肉体的疲労など感じるはずもない。これは精神的な消耗だろう。もうすべて過ぎ去ったことだとはいえ、あまりに多くのことがあったのだから。 「……君は、本当にひとりになったのか」  彼は身を乗り出して、影なき影に腕を伸ばした。感触も体温も匂いもなく、身体はすり抜けたが、そこに確かに存在するように抱きしめた。  腕の中のハーデスは一瞬、そこから逃れたそうに身じろいだが、黙ってそこに留まった。かれはもともと饒舌なたちではなかったが、途方もない時は、まるでかれの親友のような弁舌を身につけさせたようだ。あるいは、身につけざるを得なかったのか。ソルという皇帝を演じるハーデスには、エメトセルクという役者には。 「もう、その続きはいい」  影なき姿をきつく抱きしめる。感触は伝わらずとも、彼の情動は伝わっただろう。 「君は愛したんだろう。僕たちのかけらを」 「愛した? ばかばかしい。あの、無益な争いを繰り返す、なりそこないどもをか」  彼はかぶりを振った。  もうそんな風に取り繕う必要はないのだ。そう思わなければ、罪悪感に押しつぶされてしまいそうになるのだとしても、その役目を君に押しつけてしまったのは、自分たちだ。 「あの時だって君は、新たな生命を贄にささげることに、本当は反対していたじゃないか」  当時の弁論では、最終的に意見が一致することはなかった。だがそれは、かれがエメトセルクの座につく者として、十四人委員会の方針にしたがう立場であったからだ。 「あの時の生命は分割されていない、欠けていない生命だ。なりそこないとは違う」 「……けれど、君は子を成した」 「目的のための手段に過ぎない。その後の、後継者争いで戦乱を起こすためのな」 「それは偽りだ、ハーデス。僕は君をよく知っている。手段のひとつであったとしても、君のような人が、どうして愛なくして子を成せるだろう」 「お前が知るのは、かつての私だ!」  ハーデスは己を抱きしめる彼を振り払おうとしたが、振りかぶった腕は彼の身を透けただけで、苦虫を噛み潰したような顔をした。 「君は変わっていない。愛していなかったというなら、どうしてそんなに苦しんでいるんだい」 「……仮に、愛したとしても、それは僅かな間だけだった。なりそこないは所詮、なりそこないに過ぎない。信じれば、それだけ失望するだけの、まがいものだ。今のお前と同じように」 「なりそこないと君はいうけれど、統合を重ねるほど、彼らの存在は、僕たちに近づいていったはずだ。その生命を殺めることに、君が抵抗を抱かないはずはない。君は生命への慈しみを捨てきれないんだ。今の僕を還さないように」 「それがどうしたというんだ。私がなりそこないを愛していたとして、何か変わるのか。私は使命を果たし、お前の生命は、他者を贄にして創られた。私の手は血濡れている。そのことに、変わりはない」  激しく論じ合ううちに、彼の息は上がっていた。ハーデスもまた同じように、やり場のない感情を吐き出すような息づかいを見せていた。 「だから君は、この新たなる世界に、君自身は不要だというのかい」 「……この期に及んで、まがい物のあふれる世界で私に生きろというのか」  ハーデスがそう答えたとき、彼はよみがえって以来、何よりも痛ましい、泣きそうな表情をみせた。 「まがい物の僕では……君の心を癒すことはできないようだ」  彼は、ハーデスから一歩退くと、その姿を目に焼きつけるように、愛おしげに、優しいまなざしで見つめてから、未練をたちきるように背中を向けた。 「……どこへ、行く」 「僕が僕であると証明する、唯一の方法がある」  ハーデスは目を見開いた。 「……待て! お前はまた、神に抗おうと」 「それがかつての僕の宿命であり、神の力で創造された《《まがいもの》》の僕との決別でもある」  彼は《《かつて》》のように頑なに告げると、ハーデスを振り向いた。  まっすぐな瞳に射抜かれて、ハーデスもまた《《かつて》》のように言葉を失った。瞳の奥に燃えさかる使命の炎、争いを生む神への断罪の意志、魂が転生しようとも消えない聖火は、忘れもしない。 「お前、は……」  その意志の光に照らされたとき、彼が真に蘇ったことを、ハーデスは信じざるを得なかった。 「行くな、私を……置いて行くな!」  影なき足が踏み出し、影を作り出した。実体を得たハーデスは、彼の腕を今度こそつなぎとめた。だがはっとしたように、その手はまもなく離された。 「お前は、あいつだ。お前の魂だけは見紛うものか。だが私はもう、真なる世界に……お前に相応しい存在じゃない……」 「…………ハーデス」  彼は下げられたハーデスの手を取り、つよく引き戻し、つまずくようにもたれかかったかれを抱きとめた。あの頃から変わらぬ体温と感触と匂いがした。 「離せ、私は……」 「置いて行くなといったり、離せといったり、君は忙しいなあ」  彼は抱きしめる腕にますます力をこめた。  ハーデスが今までに何を為してこようと、その罪はかれだけのものではない。彼にとって憎むべき存在は、ヒトではなく、争いの根源たる神のみであったし、欠けたる生命も、真なる生命も、区別なき慈しみの対象だった。 「君の罪は、僕の罪でもある。よみがえりし真なる人、すべての原罪だ。贖罪の道はひとつだけ……そのために、僕は宿命を果たさなければならない」  ——君も共に来てくれ。  《《あの日》》にはなかった言葉の続きに、ハーデスは言葉もなくうなずいた。