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Q.E.F.

「やあ、これは稀にみる傑作だね」  創造物を品評する台座の上にのせられた黒い物体をつつきながら、ヒュトロダエウスは朗らかに言った。  この雑念の塊とさえ言える創造物をうみだした本人は、あからさまにしょんぼりとうつむいた。それもそうだろう、こんな度しがたいイデアはある意味でめったにお目にかかれない。赤子が思うままに行使する創造魔法だって、もうすこしマシなものを生み出している(もっとも、魔力量がまだ乏しいうちは、その創造物もあぶくのようにすぐ消えてしまうのだが)。  この創造物には、根幹となるイデアが視えない。まさに今の彼の心のありようを、そのまま映した出来栄えなのだ。ぐちゃぐちゃで混沌としていて、なんともセクシャルな造形物といえる。うねるように動くそれは、触れるとふにふにと柔らかな感触がして、内側に芯をもっていて、適度な弾力があり、表面にはぬめりがある。人差し指と親指を擦り合わせると、ねっとりと糸を引いた。そのかたちや手触りといったらどうしたって《《アレ》》を想像してしまう。 「これを創ってから魔法そのものが使えなくなってしまって……消すこともできず……」 「ああ、どうりでキミの魔力が停滞しているわけだ」 「……どうしたものかと」  ヒュトロダエウスはううん、と首をひねった。  何らかの精神的なショックを受けた者が、魔法をうまく扱えなくなる事例は聞いたことがある。彼ほどの魔道士が、このような雑念にまみれた最高傑作を創ってしまったなら、それはもう残念な気持ちになることだろう。けれど誰しも失敗はするものだ。それだけで魔法が使えなくなるとは到底思えない。これはただのきっかけに過ぎないのだ。 「原因は明らかだと思うけれどなあ」  自分でもわかっているだろうに。  ヒュトロダエウスの見すかすような視線を、真正面から受け止めきれなかった彼の瞳がさまよう。 「ハーデスと何かあったのかい」  あ、エーテルが揺らめいた。  はあとため息をついて眉間に手をやる仕草は、まさに《《ハーデス》》そっくりで、ヒュトロダエウスは笑いを堪えきれなかった。 「フフ……最近は交感していないみたいだからね」 「せめて視ていないふりをしてほしい……」 「ワタシが知っていると思ったから、相談しにきたんじゃないのかい?」  そういうわけではない、はずだ。と、彼は力なく首を横にふった。魔力が使いものにならなくなってしまったのをどうにかしたいのであって、そこにヒュトロダエウスの親友は関係ないのだ。たしかに最近はエーテルを交わせていないが、それはまた、別の問題だ。  雑念生物が台座を這ってできた、ぬらぬらと光る道筋に目を落としながら、彼がやたらと思考をめぐらせているのを視て、ヒュトロダエウスは、やはり笑いがこみあげてくるのを抑えることができなかった。まるで長年つれそった伴侶のように似通ってしまっている。よほどじっくりと交感しつづけていたのだなあと肩をふるわせていると、彼は「笑いごとじゃない」とヒュトロダエウスを睨みつけた。それがまた似ているものだから、とうとう台座に突っ伏してしまった。  ぐちゃっといやな音がして、腕の下から白い粘液がしみた。ヒュトロダエウスは笑みを引っ込めて、無残にひしゃげた創造物を見た。 「しまった。キミの傑作が……」 「やめてくれよ……それだって処分してもらうつもりで持ってきただけなんだ」 「魔法が使えないというのは不便だね」  ヒュトロダエウスがさっと手をふれば、袖をよごした粘液と、見るに堪えない創造物は、何事もなかったように消え失せた。  ハーデスが創造魔法をあつかうときはよく指を鳴らす。それぞれにイメージを固めやすい動作をすることで雑念を排除しているのだ。  彼も例に漏れず、儀式的な動作をおこなって、いつも通りに創造魔法でイデアを具現化したはずだが、この結果だ。  他人と魂にちかいところまでエーテルを交わしているのだから、影響はあってしかるべきで、普段より不安定になっていたことも原因のひとつには違いない。けれど魔法が使えないという問題の因果は、やはりハーデスと彼の関係にある。 「それで、どうしてハーデスと交感しなくなったんだい?」 「…………それは……」 「魔法が使えないなんて大問題、本来なら治癒魔法に長けた専門家に相談するべきだ。それなのにワタシのところにきたということは、キミ自身も原因がわかっているってことだろう?」  意見をのべながら椅子をふたつ創造して、やわらかなクッションに腰かける。彼は難しい顔をしながらも、おとなしくヒュトロダエウスと向かい合った。そして覚悟を決めたように、まっすぐに仮面越しの視線をあわせた。 「わかった……話すよ」  そもそものはじまりは弁論における決裂だ。その演題とは、昼寝にふさわしい場所などという、他者からすれば実にしようもないものであったのだが、彼らは大真面目に三日ほど論じたあと、相互理解のために《《エーテル交感》》を行なったのだった。  身体をながれるエーテルは、ただの魔力にとどまらず、記憶や感情、そして魂の存在にも関わっている。万物を構成するエーテルは、星の理であり命の源流ともいえるのだ。それを他者とたがいに循環させるなど、そもそも並の魔道士にはできない所業である。思いついた勢いのまま実践して、成功させてしまうところは、さすが当代のエメトセルクと、その彼が懇意にしているあの人であると言う他ない。  ただし《《エーテル交感》》には、どうしようもならない《《副作用》》と言うべき問題があったのだ——。 「はあ……っ……はあ……っ」  紅潮した頬を隠すようにシーツへ埋める。  すこしでも身じろぎすると、下肢をひやりとした感触がおそった。ぐっしょりと染みているのは汗ばかりではない。とはいえそこに遺伝子の塊は含まれておらず、もっぱら透明な分泌液が滴っているだけだ。押し上げられた布地が傍目に脈打って、またひとつ染みがひろがった。  もはや我慢しようがしまいが、結果的には同じことなのではないかと思いながらも、彼は脱力しきった身体にどうにか力をいれた。  ふうー、ふうー、と荒い息遣いを押し殺している、ハーデスの汗にぬれた前髪をかきあげてやる。自分とおなじ、情欲に焦がされた瞳にねめつけられる。一言もしゃべる気力が残っていなくても、言いたいことはありありと伝わってきた。 「見るな」だ。  彼らは魔力の循環を終えたあと、体の熱が冷めるまで、ただじっと横たわっていた。  最初に行ったときとくらべて、コントロールはだいぶ上手くなった。制御不能になって暴走させることもなくなり、非常に安定した状態で交感することができている。魔力の流れの奥深く、中心にひそむ心核に、たがいのエーテルを流し合い、たやすく壊れてしまいそうな魂を、手のひらでそっとつつみこむように、大切に触れるのだ。するとお互いがひとつになって溶け合うように、肉体の境界があいまいになって、感情と記憶がじんわりと浸透し、あの時の洪水のようなやりとりはなりをひそめて、時間も忘れてしまいそうな陶酔のひとときがはじまる。  それはアタラクシアへと至る崇高な儀式だ。  精神の深淵をのぞきこむ神秘の交わりでありながら、しかし、肉体という枷から逃れられないヒトは、どうしたってそこに縛られてしまう。  端的に言えば、エーテル交感には、性的興奮が避けがたい副作用として存在した。 「ハーデス、……」  名を呼びかけたものの、言葉はつづかない。だいたいなんと声をかければ良いのだろうか。  不可解な言葉の途切れについて、問い詰められることはなく、ハーデスはただ気だるげな一瞥をよこしただけであった。  思考は先ほどまで両者つつぬけであったのだし、そうでなくとも下半身の重みについては、暗黙の了解というやつだ。はじめのときは加減もわからずに暴発させてしまったものだが、今は、神経を焼き焦がすような暴流に襲われることもなく、もっとも敏感で重要な器官を、ただひたすらに優しく愛撫し、絶頂にいたる間際をただようばかりだ。  おかげで終わった頃にはいつも限界ぎりぎりで、すこしでも触れれば、じんとした快感の痺れがはしり、脇目も振らずに慰めてしまいそうになるほどで……。  そんなときはシーツをぎゅっと握りしめて、脳裏を支配しつづける欲求を押し殺すにかぎる。出したい、擦りたい、そんな即物的な欲望は、この儀式にはふさわしくないのだ。 「……それでキミたちは、欲求が収まるまでじっとしているのかい?」  彼は大真面目にうなずいた。  これは魔力交感の弊害だなあ、と、ヒュトロダエウスは困ったような笑みをうかべた。頭が固いところまでハーデスに影響されなくてもいいというのに。否、それならばハーデスも、彼に影響されていてもおかしくないのではなかろうか? 「そこまで深く交感しているなら、キミたちだって、お互いにすっきりしたいってこと、わかっているだろう?」 「それは……そう、だけれど、そういう目的ではないのだし……」 「はじめての時のように、もうすこし深く浸透してみるのはどうだい。そうすれば終わった後にそういう欲求に苛まれることもない」 「それこそ、だ、出すためみたいじゃないか!」 「ただの生理現象だよ」 「僕の思考はハーデスに伝わってしまうんだ。だから、だめだ……」 「つまりキミは、ハーデスと気持ちよくなりたいってことだね」  違う、と否定しかけた言葉が喉にひっかかり、彼は押し黙った。  ——そうだ。僕はよこしまな情欲を抱いているのだ。  あけすけに言うならば、彼の素肌にふれたいし、匂いをかぎたいし、心臓の鼓動をききながら、肺が呼吸に膨らんだり、へこんだりするさまを観察したいし、苦悶の皺のきざまれた眉間が、さらにぎゅっと深みを増すところを見たいし、肉厚な唇をこじあけて、その隙間から、淡白な口上のかわりに、あえかな声が漏れでてしまうのを聞きたかった。  けれども、深層意識にしずみ、心をかよわせる繊細な行為に、そのような欲望は持ち込みたくないし、交感をぬきにして求めるなんてことは、さらに論外だった。 「ところでキミたちは、なにが相手の感情で、自分の感情なのか、わかっていないんじゃないのかい?」 「そんなことは……循環の最中ならともかく」 「少なくともワタシの目には、キミの精神の在りようが、ずいぶんハーデスに影響されているように視えるよ」  彼は指摘されてはじめて気がついた。はっとしたように口元を引き締め、自分の最近の言動について思いを巡らせる。  一度目の交感で、ハーデスと彼は想像上とはいえ行為に至った。あさましいほどの欲望さえ共有して。いまさらなにを恐れることがあるのだろうかと、そんな風に思っていたはずなのに。この戸惑いはいつからだ? 「キミの身体にはまだ彼のエーテルが残っているし、影響を受けていないとは言いきれないだろう?」 「……この罪悪感は……僕の感情ではない?」 「交感のせいで自己の境界が曖昧になっているんだとしたら、そうかもしれないね」  いくら稀代の魔道士とはいえ、危険な試みには違いないのだということを、彼はいま一度はっきりと認識した。知の探究に命をささげてきた者は珍しくないし、讃えられるほどでもあるが、ひとびとのためのイデアの追求というには、この行為は個人的な悦びにかたよりすぎている。  創造物を共同でうみだし、星の理について他愛なく語り合い、魂のかたちを探りあうのは、あまりに満ち足りた時間だった。  それらはすべてハーデスへの愛ゆえだ。  今まで自覚の足りなかった想いが、つぎつぎと言葉になって感情の表層に浮かび上がってくる。そして、それらはすべて交感を通じて伝わっているに違いないのだ。  これより先に進むべきではないと、この身が警鐘をならしているのは、ハーデスの心情なのだろうか? 身を焦がすような畏れは。胸を締めつける想いは。  わからない。どうしてしまったのだ。どういった行為をしようと、かけがえのない存在であることは変わりないはずなのに。この関係性が変わることなどありえないと、そう言ったはずなのに。なにをおそれているのかわからないのは、他ならぬハーデスが、交感中もかたくなに、その深層心理に触れることを拒んだからだ。  突然、ひとりぼっちになったような感覚にかられて、彼は仮面越しに顔をおおった。交感後に身を離すときのような、かたわれを喪うような、寒々とした余韻だった。 「……ひとまず時間を置こうと思う。魔法が使えないのも交感の影響でエーテルが乱れているのかもしれない」 「このまま彼を避けつづけるつもりかい? 魔法が使えないということも黙って?」 「交感のせいで不調かもしれないなんて、知られたくないな。そんなことを言ったら、もう二度と——」  彼はかぶりを振った。この期におよんで、なおハーデスとの精神同調をもとめるなんて。それに自分の体調よりもはるかに気がかりなことがあるではないか。 「ヒュトロダエウス、君の目からみて、ハーデスの身体は問題ないのかい?」 「うん? そうだね……」  白い仮面に隠されたまなざしが、遠くを見据えるように虚空へ定着する。 「少なくとも、キミのような魔力停滞は起こしていないよ。キミとおなじように、エーテルの残滓はみられるけどね」 「そうか……ハーデスは、キミと同じように、僕の身体を視れば、魔法を使えないというのもわかってしまうのだろうか?」 「それはどうだろう。エーテルが淀んでいることは彼にもわかるだろうけど、目の前で魔法を行使しようとしないかぎりは、わからないと思うよ。活性化していない魔力経絡を追うのは、それなりに骨が折れるからね」 「それならいい」とうなずきかけた彼に、ヒュトロダエウスは「ひとついいかな」と言葉をつづけた。 「しばらく彼と交感しないこと自体には、ワタシも賛成するけれど、相談はするべきだと思うよ。せめて自分の意思をつたえるくらいはね。今までそんな深い同調をしてきた相手にたいして黙っているなんて、キミが彼の立場なら、すこし薄情だと思わないかい?」 「それは——そのとおりだ。ありがとう、ヒュトロダエウス。でも魔力の不調に関しては少なくとも、今はまだ……様子をみていたいんだ」 「それがキミの選択なら、これ以上は何も言わないよ」  ヒュトロダエウスは優しげに微笑んだ。  彼は感情の混雑に戸惑っている。同一化しかけた精神のきりわけは必要だ。けれどおそらく、魔力の停滞は交感をひかえることでは治らないだろう。  胸のうちにためこまれたフラストレーション、それを象徴するように生まれた創造物、相談をもちかけられたとき、真っ先に口にした言葉だが、原因は目に視えている。 「ハーデスには、明日話そうと思う」  なんと言おうか。不調を知られたくない彼がううんと悩む。自我の混雑がみられるからというのも、余計な心配をまねきそうで、言うのをはばかられる。もしかするとハーデス自身も、情緒の乱れを自覚して、交感を避けつづける彼になにも言わないのかもしれない。とにかくなにかしら、不安感だとか後ろめたいことがあるなら、すべてがつつぬけになってしまう行為は避けたくなるのが心情だ。 「《《いつもの》》彼なら、特に理由は聞かれないと思うよ」 「いつもの——?」  彼は首をかしげたが、ヒュトロダエウスにそれ以上言葉を重ねるつもりはないようで、おだやかな笑みだけが返された。  《《エメトセルク》》が失踪したのは、ちょうどその翌日のことだった。  創造物管理局局長としての職務に、行方不明者の捜索が追加されたようだ。ただ覚えのあるエーテルを追って視るだけなので、たいした手間ではないのだが。 「どこにもいないんだ。議会さえ欠席して、いったい——」  依頼者は彼だ。  いささかあわてた様子は、昨日、得体の知れない創造物を持ち込んできたときとほとんど同じで、対するヒュトロダエウスは、デジャヴに襲われた気持ちだよ、と、特にあせることもなく微笑んだ。  ながい時を生きる人々のなかで、彼の時間だけは、いつもすこしだけ流れるのが早い。当代エメトセルクが勝手な行動をするのは初めてだが、議長である当代ラハブレアだって、ときどき急なひらめきを得ては、すべてを放り出して研究に明け暮れようとするのだし(そのたびにイゲオルムの冷ややかなブリザードがアカデミアに吹き荒れるらしい)、たった一日見当たらないくらいで、誰も特別さわいだりしないものだ。けれども、いつもなにかと刺激をもとめ、旅に出てしばらく帰ってこないことも珍しくない彼は、のんびりとした市民の気質をあまり持ち合わせていない。 「こんなこと、今まで一度も……」 「そんなに心配することはないんじゃないかなあ。キミとちがってね」  けっして釘をさすつもりで言ったわけではなかったが、彼はぎくりとしたように口元を強張らせた。 「それにしても、まさかとは思ったけれど、そのまさかだったね」 「まさか……ってどういうことだい」 「キミがハーデスに似てしまったように、ハーデスもキミに影響されたんじゃないかな」 「えっ……と、つまり、ハーデスは」 「うん。旅に出たくてしかたがなくなってしまったのかもね」  彼は深々と——それはもうハーデスそっくりに——ため息をついてみせた。  そして行方知れずになるたびに占める想いをはからずも理解した。彼なら大丈夫だという信頼感さえ同じなのだろうか。《《あいつなら大丈夫だ》》と? 呆れも諦めもいりまじった感情で。 「……連れて帰らなければ」 「その身体で? いくらキミといえどそれは無茶だ」  だいたい転移術も使えない身で、どうやって海を渡るというのか。彼は「それはわかっている」と言って、さらになにかを訴えるような目でヒュトロダエウスをみた。どうにかしてくれということらしい。 「そんなに慌てなくとも、すぐに帰ってくると思うよ」 「……それを僕に言うのか」 「おっと、そうだった、キミはなかなか帰ってこないからね。そうじゃなくて、エーテルの残滓がうすくなれば、自主的に帰ってくるだろうし、キミを視るかぎり、それもそんなに時間はかからない」 「そうはいっても彼は《《エメトセルク》》だ。ふと我にかえったとき、勝手に都市をぬけだして、しばらく留守にしていたなんて、その期間が長引けば長引くほど、自己嫌悪するにちがいない。僕との交感が原因でそうなってるなら、放っておけるわけがないだろう?」 「ううん……キミたちって本当、頑固なところはもともとそっくりだよねえ。仕方ないなあ……ワタシは《《視て愉しむ》》だけで、彼のように視えるものを活用できるわけじゃないから、大したことはできないよ。帰ってくるように伝えるだけだ」  魔法でハーデスのところまで思念をとばすくらいなら、少々つかれはするが難しいことではない。直接迎えにいくことに比べれば、なんでもないことだ。都市を出るには多くの手続きが必要だったりと大変なのだ。局長という立場的にも、どこかの誰かと違って、無断でふらっといなくなるのは問題がある(もっとも都市内にかぎって言えば、ヒュトロダエウスはしばしば《《息抜き》》と称した散歩に繰り出していたが)。  ハーデスは市民の代表という立場であるから、むしろそのあたりには融通がきく。《《彼》》が勝手を許されているのも、都市に貢献する優秀な人材であることをさしおいても、ハーデスの……エメトセルクの措置によるところが大きい。  その苦労を知ってか知らずか、彼はパッと声音を明るくして「それでいい!」と、ヒュトロダエウスの提案に飛びついた。 (ワタシもたいがいキミたちに甘いなあ)  ヒュトロダエウスは、すうと息を吸い、まぶたを閉ざして、意識を集中させた。  ゆったりと力を抜いた身体は、夜空のような無数のひかりに満ちる、物質界と重なりあった、もうひとつの海へ沈んでゆく。 (ああいつ視ても、うつくしい色をしている)  目の前のかがやきの奥には、抱擁するようにかすかにきらめくかすかな影が残っている。その足取りを追って、星の胎内にもぐりこみ、多くの魂と別れをつげながら地脈を流れてゆけば。 (……みつけた)  ずいぶん遠くまできたものだ。あたりは街どころか人の影すら見当たらない原生花園で、淡色のちいさな花弁が風に舞っていた。人工的な造形物などなにもない。彼ほどの魔道士であれば、地脈に頼らない転移術をもちいて、このような秘境にも容易におとずれることができるのだろうが、どうやって知り得たのだろう。《《彼》》の記憶だろうか。それとも共にこの地へ立ったことがあるのだろうか。 「やあ、怠惰なるエメトセルク。ああ、今はハーデスと呼んだほうがいいのかな?」  花を避けるように横たわる友人をみおろして、ヒュトロダエウスの影はちいさく笑った。これぞ既視感というものだ。ハーデスも同じことを思ったらしく、エーテルがざわついた。そのかんばせには赤き仮面が身につけられておらず、不機嫌な表情があらわになっていることは想像に難くなかった。というのもエーテル視では、相手のおおまかな輪郭は捉えられるものの、見た目に細かい変化はわからないのだ。 「……何の用だ」  今回の返事は早かった。無視したところで黙って立ち去る男ではないという諦観か、それとも《《彼》》の影響の一端か。 「キミの大切なひとが、早く帰ってきてほしいって」 「……あいつか。放っておけ」 「おや、ずいぶんつめたい言い草だ」  素直じゃないところは変わってないなあ、などと観察していると、ハーデスはじろりと睨みつけるような気配をさせて「まだ何か言いたいことでもあるのか」とたずねた。ささくれ立ったエーテルは、苛立っているようにも視えるが、それにしては声音に元気がなくどこか物憂げだ。 「なくはないけれど、残念ながらワタシにその権限はないんだ」  ヒュトロダエウスの言葉に、ハーデスは怪訝そうに半身を起こす。 「……あいつが私と接触するのに、わざわざお前を介している事となにか関係があるのか?」 「察しがいいね。これ以上はワタシの口からは言えないけれど……ああ、そろそろ時間切れだ」 「さっさと戻れ。……そのうち帰ってやる」  ハーデスが追い払うように手をふると、ヒュトロダエウスはかき消える前に、フフ、とわらって言い残した。 「愛しの彼に伝えておくよ」 「……ハァ?」  抗議の声が発せられる頃には、友人の幻影は霧が散るように消えていて、風だけがおだやかに草根を揺らしていた。ハーデスはふたたび上半身を地面にたおして、晴天の日差しをさえぎるように腕で目を覆った。 「……まったく、どういう風の吹きまわしだ。前は引き留める間もなく、あちこちを放浪していたくせに」  それに、とハーデスは思考をつづける。  あの男の性格的に考えて、自分の足で連れ戻しにくるかと思えば、ヒュトロダエウスをよこすとは。いったい何があったというのか。よもや交感で——。 (いや、それはありえない。あいつはそれしきのことで行動をあらためるような男ではない。なにか別の要因があったと考えるべきだ)  しかしなにも思いつかなかった。ヒュトロダエウスはあの男に口止めされているのだろうが、もしも重篤な事態が発生しているなら、おとなしく黙っているはずがない。  気になるのなら帰って確認すればいい。理性が告げるも、言われてその通りにするのはいささか癪に触った。なさねばならないことは、あらかじめ終わらせてきているし、定例会ではどうせ大したことは話し合っていない。恒久平和の約束されたアーモロートは話題にとぼしく、あの男の冒険の話を多くの市民が聞きたがる。  結局のところハーデスは、自身に休暇と言い訳して、断片的な記憶のおもむくまま旅をつづけることにした。これが今なすべきことなのだ。  彼が目覚めたのはたそがれ時だった。夕映えのひかりが差しこみ、室内は夜の間際の日照りにさらされていた。  数日前からどうにも身体が重く、慢性的な眠気がとれない。  ヒュトロダエウスに相談を持ちかけてからというもの、おもに弁論館で暇をつぶしたり、公園で子供たちに旅の話を聞かせてやったり、ときおりアカデミアに顔を出したりもしたが、魔法が使えなければ出来ることも少なく、ここ最近は今までの素行が嘘のように、室内にひきこもっていることが多い。  最近はあなたの姿を見ることがおおい。  何気なく言われて、思えばハーデスと交感をしたときから、アーモロートを一度も出ていないことにも気がついた。 「そのうち……っていつなんだろうか」  つぶやきはしんとした空間に吸い込まれるように消えた。  真新しいシーツはなめらかだったが、冷ややかでどこか他人行儀だ。彼の寝床はいつだって、草や土のにおいのするふかふかとした大地か、人肌のぬくもりと息づかいの感じられる——ハーデスのとなりだった。  都市を留守にしがちな彼の自室は、埃にまみれているのが常だったが、交感を避けはじめた頃に存在をおもいだしたおかげで、今はそれなりに清潔になった生活感のある空間だ。  当然のように居座っていた男が急におとずれなくなっても、ハーデスは何も言わなかった。あさましい情欲を忌避する気持ちが伝わっていたからだと、そう思っていたが、きっとそれだけではないのだ。避けられていたのは自分のほうだ。寝がえりをうつと、熱っぽい頬につめたい感触が気持ちよかった。 「……ハー、デス……」  いっそ創造魔法で幻影を生みだしてしまいたいほどに、かれのぬくもりが、まなざしが、ぶっきらぼうな優しさが恋しかった。  気だるい腕をどうにか持ち上げ、焦がれる姿をそのまま思い描き、ぱちん、と指をならす。  ——なにも起こらない。  当然の結果だ、そもそも魔力を練り上げることができないのだから。あの不名誉な創造物さえ創ることはできない。重力にしたがい落ちた腕を受け止めたシーツが波うった。 (いや、ちがう……)  この魔力停滞は交感が直接的原因ではないことが、今ならはっきりとわかった。無意識のうちに感情を抑圧していたせいで、雑念を排除できなくなり、むりやり具現化させた結果、ハーデスへの肉欲の象徴である《《アレ》》が生まれたのだ。見たくないもの、認めたくないもの、いまわしきものが目の前に突然あらわれて、しかも潜在意識では、それが他ならぬ自分の欲望であることを理解していた。消すことはできなかった。この想いを消せるヴィジョンが浮かばなかったからだ。ハーデスへの劣情を! (そうして僕は、創造物を消すことができない理由を魔力の不調にもとめたのだ)  目を閉じて体内をめぐるエーテルに意識を集中させる。  仮面に隠された素顔も、フードにおおわれた頭髪も、その白い髪を指にからめたときの感触も、鬱陶しげに手をはらう力のやさしさも、細められた目の奥にひそむ愛しさの影も、なにもかも鮮明に想起することができる。  魂の領域を侵し合い、どこまでもふかく知り尽くしてきた。  すなわち、ハーデスというイデアをもっとも正確に再現することができるのは、この僕であるという自負。 (本当にそうだろうか?)  雑念の影がぬるりと這い寄る。影はいやらしい笑みを浮かべながら、創りかけの鏡像の頬を撫でた。 (お前の願望によってイデアが歪まないとなぜ言いきれる?)  イマジネーションが侵されていく。冥界に愛されし男のすがたを写したまぼろしが、彼の影をなぞりあげ、首筋に舌を這わせた。触れられた箇所はやけつくような熱をもって、皮膚下にねむる魔力をざわつかせた。邪念の影は彼自身だった。 (そうだ、ハーデス。僕の魔力をかえしてくれ)  このローブの下のかたちだって知っている。輪郭をなぞるように触れれば、肉体はより明瞭な現実味を帯びた。粘膜の熱さも唾液のあじも知っている。口づければ舌のうごきさえ再現できた。やわらかな陰茎を手のひらで包みこむと、抱きしめたからだが緊張にこわばって、男を突きはなした。  その瞬間、たえがたいほどの熱が全身をむしばんだ。 「あ……うっ」  ためこまれた魔力が暴走を引き起こしている。停滞していた魔力の活性化には成功したが、自然放出だけではまかないきれなかった、彼の膨大なエーテルが肉体に影響を及ぼしていた。突然胸をおさえ、ぜえぜえと息を吐き、身をよじりだした彼に、ハーデスがぎょっとしたようにふたたび近づいた。 「どうした」心配そうな声音に、彼は笑いを漏らした。  いくら精巧に再現したところで、結局はただの創造物に他ならないのだ。そこに魂は宿らない。仮にハーデスやヒュトロダエウスのように、エーテルを視ることができたのならば、その差異が目について我慢ならなかったかもしれない。しかし幸か不幸か、彼が有しているのは物質的な視覚にかぎられていた。  様子を見ようとかがんできた首根に腕をまわし、体重をかけて引き寄せれば、ハーデスはいとも簡単にシーツへ手をついた。 「おい、なんのつもり……ッ」  仮面を奪って、余計な言葉を口づけでふさげば、まなざしが驚愕に見開かれた。何度も角度を変えて柔肉を食む。荒い鼻息は興奮によるものか、暴走する熱によるものかもわからなかった。  力の入っていないくちびるは無防備で、上唇の裏側をなめることも、歯列をこじあけてさらに深く侵入することも容易だった。舌が奥へとひっこむ前にからめとると、以前は熱くかんじた粘膜がぬるくまとわりついた。 「は……落ち着け……っ……」  ハーデスは彼の肩をつかんでシーツに押しかえした。  拒絶するのは当然の反応だ。彼は自嘲の笑みを浮かべた。劣情を受け入れるイマジネーションがわかなかったのだから。だが、かまうものか。いくら拒まれようと所詮は幻影だ。はじめから自分勝手に欲望をぶつけるため生み出したのだ。当人のあずかり知らぬところで、唇のやわらかさも、首筋に顔をうずめたときの体臭も、性器のかたちや大きさでさえも再現するなど、それだけでおぞましい行為ではないか。これ以上なにをしても、なにもしなくても、罪は罪だ。  肩を押さえつける手を退けようと、体幹に力をこめる。しかし、彼の背はちっともシーツから浮き上がらなかった。物理的な力くらべなら、ハーデスより優っているはずなのに歯が立たない。 「お前、エーテルが……」 「はは……なにをそんなに焦っているんだい」 「いいからはやく魔力を放出しろっ……聞こえないのか?」  言葉の中身は彼の耳には届かなかった。ゆだるように熱い脳に、なにかを訴えているな、という印象だけが残る。まばたきのたびに目の前がぐわんぐわんと揺れて気分が悪かったが、険しい表情を見上げることはやめたくなかった。  そのずいぶんと久しく思える顔立ちが、肩にかけられた体重とともに退き、彼の視覚から消えた。 「あ……待、っ、ここから、出ては……」  帰ってきてはいないのだろうが、万が一本人と鉢合わせたらまずいことになる。そうでなくとも彼を《《本物》》だと勘違いされては問題だ。だが、彼の身体には力がまったく入らず、起き上がることはおろか、指先ひとつ動かすことができない始末だった。  ああ、こんなことなら、ただの創造物であるという概念を刻みつけておくべきだった。予想し得たではないか。 (ハーデスは僕を置いてどこかへ行ってしまったのだから)  こんこん、と、ノックの音がひびいた。  夕陽に照らされた影がふたつ、壁に伸びた。 「ワタシだよ」 「ヒュトロダエウスか、……細かい話はあとだ。こいつの身体はどうなっている」 「彼は精神的な要因から、魔力が停滞していたんだ。それが活性化して暴走状態になっている。きっと無理やり魔法を使おうとしたんだろう」 「魔力が停滞? つまりエーテルが放出されずに溜まり続けたせいで、活性化した瞬間に経絡の許容量を超えて《《詰まった》》というわけだ」 「その通りだよ。いずれ自然に排出されるだろうけど、それまではいろいろとまあ、つらいかもしれないね」 「……はあ……あとで話がある」 「ワタシは今でもかまわないよ」 「……こいつの症状をどうにかするのが先だ」 「そうだね、キミはそういう人だ。魔力暴走が視えて心配になって来てみたけれど……キミがやってくれるなら、うん、それ以上はないよね」 「……それで、方法は」  彼は朦朧としながらも、ふたり分の話し声をかろうじて認識していた。こんな間の悪い時に来客とは。いったい誰なのだろうか。すぐに思い浮かんだのは《《本物》》のハーデスだ。帰ってきてくれるばかりか、わざわざたずねてもくれるなんて、都合のいい夢であると同時に、考えうる限り最悪のシナリオでもあった。扉をあけて目にするのが自分のドッペルゲンガーなど、ぞっとしない話だ。  現実的に考えれば、そこにいるのはヒュトロダエウスだろう。彼が普段どれだけエーテル視というものを使っているのかわからないが、この身体の異常に気がつく可能性はある。そして《《それ》》が、醜い欲望によって創られた紛いものであることを、一目で看破するに違いない。  やはりこんなことはするべきではなかったのだ。  見られてしまった以上、もう遅いとはいえ、自分の創ったものは自分で処分しなければ——。 「やめろ」  ひんやりとした手を頬にあてられて、集中力を欠いた彼の瞳がハーデスを見上げた。充血して潤んだ瞳は、ぼやけた輪郭をうつすだけだった。 「無理に放出しようとするな」  ハーデスは彼の額にはりついた髪をかきあげてやった。 「聞こえるか?」頬をかるく叩いて問いかけられ、彼は間をおいてうなずいた。触れられた箇所から熱が吸い取られていくように、からだがすこし楽になっていた。客人はどうしたのだろうか。話し声はもう聞こえなくなっていた。 「今からお前の飽和したエーテルを、私を経由して放出させる。いつもやっている魔力循環の応用だが、お前はなにもしなくていい。いや、なにもするな」 「交感、を……? 無理だ……」 「なにもしなくていいと言っただろう。だまって横になっていろ」 「そういう……問題じゃ……」  いくら精密に創ったといっても、それは見た目と概念だけだ。ヒトの身体を複製することなどできはしない。表皮を切りさいたとしても血は流れず、エーテルだけがあふれてくる。また創造物の思考は、創造者が《《思い描いた概念》》であり願望でしかない。とどのつまり、このハーデスが本物のように《《交感》》するなど不可能なのだ。  だがそのイデアには、自らが創造物であることを自覚する概念は刻まれていなかった。  ハーデスに手をにぎられた頃には、彼は抵抗をあきらめていた。試みたところでどうにもならないのだから、好きにさせても問題はない。 「っ……あ……⁉︎」  ビクン、と四肢がはねた。久しぶりの感覚に彼はひどくうろたえた。 (うそだ、これはまるで)  魔力経絡が接続される感覚。 (ありえない!)  彼の肉体が制御を失い、支配された。  ——ラハブレア院で創られるような、精妙な魔法生物ならば、ある程度の魔法もあつかえる。しかし魔力循環に関しては、下手な高等魔術よりも、よほど繊細なエーテル操作が要求される。たとえ《《オリジナル》》だとしても、並の魔道士では危険でさえあるこの儀式を、ただの創造物ができるわけがない! 「君、い、いつ帰って……っ」 「……なんだ。あんなに情熱的に出迎えておいて、いまさらにもほどがあるんじゃないか。ん?」  情熱的な。彼は言葉を反芻した。  そして理解した。そもそもハーデスという創造物は生み出されなかったのだ。ちょうど本物のハーデスが帰ってきたのを誤認して、あんなことをしてしまったのだ。熱っぽさが血の気とともにさあっと引いていくようだった。 「あ、あれは、違うんだ、っ……んぁ……」  もう黙っていろ、とでも言うように吸い上げられ、甘やかな声がもれる。彼は火照った頬をさらにかっと熱くした。  一方的なつながりは、交感とはまた異なる感覚を彼にもたらした。過剰な魔力を吸われるたび、減少するエーテルとは対照的に、からだの芯の種火がくすぶった。 「っは……、は……」  なんと熱い魔力だ。ハーデスの首筋にじんわりと汗がうかぶ。受け入れた先から極性を調整してはいるものの、それでも燃えるような錯覚さえ感じた。だがそれはよく知る《《味わい》》でもあった。己のエーテルを捧げることのない一方通行の儀式ではあるが、彼の魔力をその身に受容するハーデスにとっては、交感にはおよばずとも、心身を満たす心地よさがあった。  流れこんできた魔力を放出するために、つないでいた手をはなすと、彼はまるで、行かないでくれと懇願するような目でハーデスを見た。  お前はいつも、気のおもむくままに去っていったというのに。  窓の向こうで地平線に沈みかけた太陽のように、シーツが重みに陥没した。彼のとなりに横たわったハーデスは、翳りの奥で苦笑いをうかべた。 「ぁ……ハーデス……」  鼻先が触れあって、彼は一瞬、口づけられることを期待した。たがいの呼吸が溶けあうほど近づいて、無意識に唇から力が抜ける。だが奇妙な間を置いて、たがいの呼吸器官は離れていった。かわりにひやりと額がくっついて、止まりかけた息がふうと漏れた。  どうしてやめたんだ。そんな恨みがましさが、まなざしに表れていないとはいえなかった。ハーデスは目をそらしていた。途中までは、その気だった。それくらいは交感していなくても、彼にはわかるつもりだった。どうしてキスしなかったんだ。 「どうして……」  だが舌はちがう言葉を描いた。 「どうして帰ってきたんだい」  ハーデスは面食らったような顔をした。  彼もまた、いや、と口ごもる。これではまるで帰ってきてほしくなかったような言い方ではないか。ちがうんだ、と訂正の前置きをするまえに、ハーデスの目がまっすぐに彼を見た。 「お前は、なぜ旅に出ない」  魔法が使えないのに、都市を出られるわけが、と言いかけて、彼ははっとした。最後に海向こうの大地を踏みしめたのは、一体いつだったか。  今度は、彼の目がそらされる番だった。  海の向こう側はいつだって、彼の好奇心を満たしてくれた。見たこともない景色、息づく生命たち、規律のない自由な世界。アーモロートは美しく、穏やかな毎日が約束されている。だが彼にとっては退屈こそが劇毒で、研究も弁論もあらたなイデアも彼を満たすことはなかった。イマジネーションの源泉が枯れることを恐れるように、彼はいくども首都を飛び出した。 「君と交感することで、僕は満たされたんだ」  世界がひっくりかえるような、衝撃的な体験だったのだ。森羅万象を創造しうるヒトが、唯一創り得ないもの、最後の神秘、《《魂》》に触れるという禁忌的な所業。それだけではない。ハーデスの目を通して《《視る》》世界は、今まで物質的な次元に縛られてきた、彼の想像をはるかに凌駕した。 「ならば、なぜ私を避けた」  即物的な欲求で、ハーデスを求めているのだと思われたくなかった。だがそれは、誤魔化しようのないひとつの事実だった。 「君だって……何も言わなかったじゃないか」  醜い感情を口に出すことがはばかられて、ハーデスがしたように論点をすり替えると、かれは片眉をつりあげた。 「私が都市を出て、そして帰ってきた理由を教えてやる」  夜の帳がおりた室内に、パチンと指を鳴らす音がひびいた。  その瞬間、天井も、床も、壁も、世界をへだてる垣根はすべて消えた。泡が弾けるようにしてあらわれたのは、雄大な自然そのものだった。背の高い木々が生えて、抜けるような青空を葉陰に隠し、ベッドはやわらかな腐葉土となった。  鬱蒼とした原生林のなかで、彼は呆気にとられたように上体を起こした。すうと息を吸い込むと、草木や土のにおいが鼻腔を通り抜けた。地についた手を小さな虫が這う。目の前にかざしてよくよく観察しても、造形に曖昧さなど何もなかった。  実際に足を踏み入れ、見て、聞いて、感じなければ、創り得ない情景だ。これはハーデスの目を通して視る世界に他ならなかった。  ふたたび指が鳴らされて、今度は、水中に落とされる。あまりの鮮明さにとっさに目を瞑り、息を止めてしまうほどだった。ローブが水を吸って体にまとわりつき、浮力がはたらきながらも沈んでゆく。息を吐けばぶくぶくと泡がたちのぼる。胎児のようにうずくまった彼を、ハーデスが後ろから抱き込んで、強張りを解かせた。彼はおそるおそる息を吸ってみて、肺が溺れないことを確認すると、ゆっくりと目を開いた。透明度のある視界のなかで、カラフルな熱帯魚が、水面からふりそそぐ光を受けながら泳いでいる。  水底に尻をついた瞬間、また世界が変わった。  今度は一面の花畑だった。花がひしゃげていないところに、かれらしい気遣いを感じる。びしょ濡れの頭をぶるぶると振ると、水滴がハーデスのほうにも飛び散って、かれの表情がひどく迷惑そうに歪んだ。それがとてもおかしくて、彼は声をあげてわらった。 「——とても、綺麗だ」  ぐるりと見渡して、旅から帰ってくるたびに、話を聞きたがる皆を思い出す。こんなふうにわくわくとした気持ちになっていたのだろうか。  景色に目を奪われていると、ばさっという音がして、花びらが舞った。ハーデスがあおむけに倒れていた。 「……疲れた」  この規模の創造魔法を何度も行使すれば、当然だろう。  ぼやいたハーデスをのぞきこむと、髪の先からぽたぽたと雫が滴った。鬱陶しい、と言わんばかりに眉間の皺が深くなって、彼は後頭部を抱き寄せられた。湿った胸板に頬をくっつけると、ひしゃげた茎が下がった視界にうつる。 「花が……」 「気にするな。本物じゃない」  ハーデスがそう言って欠けた花弁をなでると、手が離れた頃には、空白が埋まっていた。 (結局、かれは何を伝えたかったのだろう。  僕たちは、言葉を忘れてしまったのかな)  それでも触れ合っているだけで、心は満たされてゆく。 「どうして連れていってくれなかったんだい」 「避けていたのはお前だろう」 「それは。だって、君もわかってるだろう……」  こうして抱き合っているだけでも、考えてしまうのだ。濡れてぴたりとはりついたローブ、深く上下する腹部、なんとはなしに髪を梳いてくる指先。これらはふたりの下敷きになった花々とちがって本物なのだ。思考の外に追い出そうとしても、自然と息があがってくる。その熱が活性魔力からくるのか、それとも情欲からくるのかもわからない。 「……っア」  後頭部をなでていた指が、不意に耳をかすめて、ぞわりと肌が粟立った。ふっと息を吐く音がして体の下がへこむ。 「ハーデスっ」彼が顔を上げて抗議すると、耳を触っていた指がそのまま顎をもちあげた。  キスされるのか、と二度目の期待が首をもたげたが、何かを湛えたまなざしが、じいっと見つめてくるばかりで、薄い皮膚が重なることはなかった。 「……ハーデス…………あ、つい……」  彼はそれ以上、視線を合わせていられなかった。ぎゅっと目を瞑るとからだが反転し、やわらかなばねが背中をやさしく受け止めた。外界の幻影が消えてベッドがあらわれたのだ、と気づいたときには、焦がれていた感触が唇をふさいでいた。 「っ……ん……、ァ……ッ」  舌先同士が触れた瞬間、びりっと痺れるような刺激が走った。魔力経絡の接続だ。ぢゅうっと舌の根とともに魔力を吸われ、得もいわれぬ感覚に背中がのけぞる。もっとも熱をもった部位の先端がこすれて、彼は咄嗟に腰をひいたが、ハーデスによって抱き寄せられ、ふたつの熱杭がぐにぐにとつぶれた。 「んっ——、ンッ——……!」  ——だめだ、このままでは気をやってしまう。  彼はのしかかる胸をたたいて訴えたが、頭の先からつま先までを命令が駆けめぐった。  〈抵抗するな〉  神経伝達魔力が屈服し、四肢が弛緩する。 「んっ……ふっ……ぁ……んぁっ……」  とろりと分泌液があふれだして、幹をつたい流れる。粘膜を通じて結びついた経絡から、魔力を少しずつ、しかし強制的に吸われるたび、ローブに形の浮き出た象徴がひくついて、勢いのない吐精を繰りかえす。布越しにふれているハーデスにも、その痙攣は伝わっているだろう。  彼は抵抗をわすれて甘やかな快感に酔いしれた。吸魔されるかわりにしたたる唾液を喉をならして嚥下する。体液には微量のエーテルがふくまれていて、実際の交感にはほど遠いが、擬似的な魔力循環といえる行為に、脳が揺さぶられるような興奮を覚えた。  過剰魔力の搾取を終えて、ふかく挿入されていた舌が引きぬかれる。ふたりの頬はおなじように紅潮していた。まだ解放されていないハーデスの欲望が、ぬるついた下肢にゆるゆると擦りつけられている。彼は支配が解かれた手を伸ばして、ぱんぱんに膨張した先端部をつかんだ。 「……っは……」  くびれを指ではさむようにして擦ると、眉間がせつなげに寄って、たまらない表情をみせる。もっと見たい、と彼は渇望に追い立てられるようにして、手の動きをはやめた。びく、びく、と脈打っている。濡れているはずのローブが熱かった。 「っ、やめろ……」  ハーデスは彼の手をやんわりと退けた。 「そんな顔をして、……説得力がないよ」  実際に、かれは形だけの抵抗をみせただけであって、ローブがたくしあげられていっても、押さえようともしなかった。  魔法が使えればこんなもの、一瞬で剥がしてしまえるし、もしかするともういつでも使えるのかもしれないが、彼はあえてこの不便性をたのしむことにした。性急な動作で下着をひきおろすと、飛び出した逸物がびくんと跳ねた。空気に触れた刺激によるものもあるだろうが、きっと期待のふるえでもあると彼は思った。 「舐めても、いいかい?」 「……好きにしろ」  ぶっきらぼうな返事だったが、興奮にうわずった声は隠せていなかった。彼はずりずりとハーデスの下へもぐりこんで、たれさがった陰嚢を舌先でくすぐった。むきだしになった太腿の筋がきゅっと引き締まって、後頭部に指が食いこむ。彼が厚皮につつまれた睾丸を口の中でころがせば、たまらないというような、はーっ、はーっ、と荒い息遣いが頭上におりてきた。  夢中になって同じところばかりをしゃぶりつづけていると、ハーデスは焦れたように幹をつかんで先端を彼の唇に押しあてた。  あのハーデスが、劣情に陥落している。  どんな顔をしているのだろう。見上げて確認をしようとする前に、かれの腰が突き出された。 「っ……ンッ……」  唇を割ってきた亀頭部をちゅくちゅくと舐めまわすと、塩味のある先走りが舌の上にとろりと落ちた。くびれを唾液にぬれた柔肉ではさんで、頭を前後させると「ァ……」とたえきれなかった声がおちてきて、咥内に塩味がさらにひろがった。  ハーデスはごまかすようにさらに腰を突き出して、ぬるぬるとした咥内をよりふかく味わおうとした。だが彼の息づかいがふうふうと苦しげなものへ変わると、半端なところで動きを止めた。  強引なのか紳士的なのかわからないな。彼は半分ほどまでのみこんだ逸物を、一度口からだして、愛おしげに先端にキスをした。ついでにちら、とハーデスの表情をうかがうと、これ以上ないほどに眉間の谷間がきざまれているのが見えた。そのまなざしは葛藤に揺れていた。出したい、奥に入れたい、思いきり腰をふりたい。荒れ狂う欲望が透けている。 「君の好きにしてもいい、って言っても……君は遠慮するかもしれないけれど……」  血管の浮いた幹を舐めあげながら、彼は恍惚とした表情で告げた。 「君の好きにされてみたいって言ったら、そうしてくれるのかな」  彼は言い終えると、大きく口をあけて、限界まではりつめた逸物をのみこんだ。慣れないながらも三分の二ほどまで受け入れたが、それ以上は嘔吐いてしまい、どうしても根元まで咥えることができなかった。 「……ん、……ぇ……っ……」  無理に受け入れようとしては、生理的な反応から先へ進めず、涙を浮かべながら同じことを繰りかえす。  その苦しげな顔に情欲がたきつけられている事実をふりきるように、ハーデスは「無理をするな」と彼の目元をぬぐってやった。彼は咥えながら首をわずかに横に振った。  そんなつらそうな顔を見せながら、好きにしろだなど、無茶を言うにもほどかある——。  だが結局のところ、行為を受け入れたことにはちがいない。この男がこのような……いわゆる《《性的な交わり》》を求めていることは知っていた。そしてハーデス自身も彼とそうすることに、抵抗を抱いていたわけでも、軽蔑していたわけでもなく、むしろ同じような劣情を覚えてさえいた。見て見ぬふりをしてきたのは、それ以上の、自分本位な欲望を、押し殺すためだった。精神的な交わりだけではなく、肉体的にも交わって、歯止めがきかなくなることを恐れていた。  その箍がはずれかかっていることも、わかっていた。 「……いいのか」  問いかけの答えはわかりきっている。今も懸命に限界までしゃぶる姿は、できるまで絶対に離さないと言わんばかりなのだから。だが求めているのはそれだけではない。彼が本当に求めているのは、ハーデスの秘められた欲望のすべてだ。交感の最中でさえ明かさなかった、抑圧の本性をぶつけられることを待ちわびている。  彼は恍惚とした表情でうなずいた。 「っお……ご……っ!」 「っ……はあ……」  ハーデスは力ずくで腰を押しこんだ。喉奥に突き当たって、やわらかな粘膜がきゅうと先端をしめつける。知識として知っている快楽の、何倍も気持ちがいいように思えた。すぐに達してしまいそうになって腰を引くと、彼は激しくせきこんだが、そのまなざしはとろりとした色に染まっていた。  すぐに刺激が恋しくなり、ふたたび逸物を挿入する。浅いところをゆるやかに抽送するだけでも、定期的に腰を止めなければ、危ういほどだった。彼は意識的に唇をしめていて、心地よい刺激となるように気遣っているようだった。頭部をつかんでいる指で髪をかきわけるようになでると、気持ちよさそうに目が細まって、じゅうと音をたてて先端が吸われる。 「っん……」  やってくれたな、と言うように、ハーデスは口端をつりあげた。  間違っても流血沙汰にはならないよう、指先に魔力をこめて、脳神経に命令をくだす——弛緩せよ——緊張していた顎関節がだらりと開いた。  そうしてもう一度、喉をめがけて突き立て、やり返す。 「っ——!」  嘔吐反射に彼のからだが痙攣するのもお構いなしに、咽喉をぐりぐりとこじあけると、みるみるうちに射精感がこみあげた。止まらない。彼が自由な両手で、必死に押し返そうとしたが、ハーデスは彼の頭をまたぐようにして、シーツに押しつけた。好きにされたいと言ったのはお前なんだ。暴力的な思考に支配されながら、腰を振りたくる。唇の締めつけは緩んだものの、口蓋や舌腹に擦りつけたり、喉を突くのは気持ちがいい。唾液が泡立って、じゅぷじゅぷと潰れた。そういえば、最後に出したのはいつだったか。もう、限界だった。  ——……出るっ……。  彼の喉口めがけて先端を押しつけた。 「——はっ……ァッ……あ……」  多量の子種が精管を、そして尿道を通り抜けていった。彼はあふれた精液をごぼごぼと溺れるように持て余した。涙が幾重もつたっていた。頭が真っ白になるような快感にひたりながら、ハーデスはその光景をどこか遠い出来事のように感じていた。あまりにも、想像の範疇を超えた体験だったのだ。同じ射精という現象がここまで変わるのか。  げほ、がはっ——、彼は蹲りながら、何度か嘔吐した。シーツの上に白濁液の水たまりが生まれる。 「は……っ、すまない、ハーデス……飲み込みきれなかった、君の……」 「何を言っているんだ、お前は。そんなもの飲まなくていい。謝るのは私のほうだ」  背中をさすってやりながら、ハーデスは半ば呆れたように言った。そこは勝手に出すなとか、苦しかったとか言うべきところなのではないだろうか。好きにしてくれと言われたものの、これは明らかにやりすぎだ。今回で懲りてくれればいいが。  だが彼はハーデスの思惑とは正反対の言葉を口にした。 「次は、残さず飲めるようにするよ」 「…………飲まなくていい」  ——次は、か。  言葉にしてから気づいたらしい彼は、慌てたように「いや。その」と目をそらした。 「……知っていると思うけれど、僕は、交感だけではなくて、君と……肉体的にもつながりたいと思っているんだ。それがどうしても恥ずかしくなって……君を避けてしまった」  彼のいうとおり、ハーデスは彼の劣情について理解していた。そもそもその感情はもとはといえば自身が抱いたものだった。そして、他ならぬ彼に、どんなことがあったとしても、互いを大切だとおもう関係は変わらないのだと告げられたのだ。 「ヒュトロダエウスは、僕のこの気持ちは、君に由来しているというんだ。君を見ると胸が苦しくなるのも、これ以上はだめだと思う気持ちもそうなのかと思うと、まるで君に拒絶されているみたいで……」  ——拒絶? まさか。その逆だ。 「ハーデス……君はどうして、僕に外の世界を見せてくれたんだい」  ハーデスは頑なに閉ざされていた口を開いて、緊張を紛らわすように、一度息を吸って、吐いた。  そして、彼をまっすぐに見つめた。 「お前を縛りたくなかったからだ」  その深い情を湛えたまなざしに、彼は息をのんで、おもわずハーデスを抱きしめた。水を吸ってしわくちゃになったローブが邪魔で、無意識に魔術を構築し、たがいの身にまとうものをすべてエーテルに還した。シーツは清潔であたたかな綿のイデアに戻り、抱きしめたまま倒れこむと、素肌をやさしく受け入れた。  かれの言いたくなかったという気持ちがひしひしと伝わったが、もはや、そんなことはどうでもよかった。かれが愛おしかった。 「……やっぱり言葉にするというのは必要な行為だね。むきだしのまま伝えるには、僕たちの感情は重すぎたみたいだ」  きっと顔は見られたくないはずだ。ハーデスの頭をつつみこむよう胸に抱く。かれにそうされたように、なめらかな髪を梳いてやると、緊張のこわばりが解けていった。 「でも僕は、君のむきだしの感情を、もっと知りたいよ」  ——教えて。  頭に顔を埋めるようにして、ささやいた。  しばらくは沈黙がつづいたが、いやだとも言われなかったので、彼は辛抱強く待った。冷えていたからだが体温をわけあって、あたたかくなって、やがてうとうとと眠気にさらわれかけた頃合い、注意深くきかなければ、聞き逃してしまうほど、ハーデスはそっとしずかに吐露した。 「……行くな。私のそばにいろ」  ——うん。 「頷くな。お前は私のことなど無視して、さっさと何処かへ行けばいいんだ」  ——わかってる。 「……たまには帰ってこい」  ——君に逢いにいくよ。  言いたいことは済んだらしい。ハーデスは彼をつよく抱き返した。彼は、胸元が濡れる感触には、気づかないふりをした。 「あ……今気づいたのだけれど、もしかして、この胸がきゅうってする感覚が《《恋》》という感情なのかな」 「…………ハァ?」  へらへらと笑う彼に、ハーデスは思いきり顔をしかめた。  いまさら何を言っているんだ、こいつは。 「ねえ……どうしようハーデス、僕、今すぐ君とつながりたいんだ……」  ゆるく芯をもった兆しを押しつけながら、彼は熱い吐息を漏らした。 「……念のため聞くが、《《どっち》》がいいんだ」 「どっち? あ……ええと、交感したい、かな」  ハーデスは深い深いため息をついた。微妙に噛み合わなかった会話の意味を、彼はその後の交感で、存分に思い知らされることになったのであった。 「やあやあ、エメトセルク。昨夜はまたずいぶんとお楽しみだったね」  翌日。業務がひととおり落ち着いて、管理局からぬけだしてきたヒュトロダエウスは、見慣れた後ろ姿を見つけて(といっても市民は皆、同じような背格好をしているので、その身にまとうエーテルによって判断しているが)、わくわくとした気持ちで声をかけた。 「ちゃんとうまくやれるか心配だったけれど、杞憂だったようだ。もうどっちがどっちかわからないくらい魂がまじりあっているよ」  ハーデスがヒュトロダエウスを無視しようとするのは珍しくない。特にこのような都合の悪いときには——。  おや、なにか違和感がある。と、ヒュトロダエウスは首をかしげた。  正面にまわりこんで、うつむいた顔をのぞきこむと、《《エメトセルク》》の仮面を身につけていなかった。それに目を合わせようとしない。ううんこの仕草はどうみたっておかしい。たしかに入り混じっていてわかりにくいが、身体構成エーテルは《《ハーデスっぽい》》それをしている。 「どうしてあの人の姿をしているんだい?」  この見た目は《《変身魔法》》によるものだと看破する。 「僕は、ハーデスじゃないんだ」 「……そんなことあるかい? キミたちって本当……フフッ」 「笑い事じゃない」と口元をゆがめた姿に関しては、ハーデスにそっくりで、ヒュトロダエウスは余計に笑いが止まらなくなった。 「フッ……フフフフッ……えっ、どうしよう、おかしくてしょうがないよ……フフフッ」  つまるところ、彼らはあまりにも深く交感しすぎて、核となる魂が入れ替わってしまったのだ。ヒュトロダエウスは腹をくの字にしてひとしきり笑った。 「見た目を変身魔法でどうにかすれば、誰にもわからないと思ったのに、やっぱり君にはわかってしまうんだね……」 「フフ……いやあ、違和感があっただけで、そうとはわからなかったよ、本当におどろいた」 「交感中に気を失って、朝起きたらこうなっていて……はあ……魔法が使えるようになったと思ったら、今度はこれだ。ハーデスには、ヒュトロダエウスにだけは絶対に会うなと言われたけれど、やっぱりこんなこと相談できるのは君しかいないよ……」 「うんうん、困ったことになったね。ワタシで良ければなんでも相談に乗るよ。参考のために、昨夜なにをしたのか、詳細に教えてくれるかい?」  ——ハーデスはまだまだ帰ってこないだろうし。長らく留守にしていたからね。  ヒュトロダエウスはにこやかに、彼を人民弁論館へと連れていった。  ——年、——月、——日。  《《アニマ》》を他の器へ入れ替えるという、貴重な現象に関するその弁論は、大きな波紋を呼び、ひとびとは当代エメトセルクの功績を讃えました。  創造物管理局・現局長であるヒュトロダエウスに、当現象について語ったもうひとりの当事者は、逃れるように海向こうへ旅に出たため、しばらくの間、当代エメトセルクの身体は、彼の物のままであったようです。  なお、当代エメトセルクが現局長協力のもと、海向こうまで彼を捜索におもむき、帰還した際には、魂は元の器に戻っていたため、海向こうで事象の再現に成功したようでしたが、そちらについての詳細は依然として秘されたままとなっています。  《《アニマ》》に関する実験レポートより、抜粋。