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jus primae noctis

「待……っ……」 「しぃー……静かに」  早朝。  静けさに満ちた暗がりで、ふたり分の影がうごめいている。  衣擦れの音がひびき、乱れた吐息がヒュッと吸い込まれる。 「……いい子だね」  耳元でそっと囁いたのはヒュトロダエウスだ。  壁に追い込まれた男が、ぞくっと身を震わせる。 (なぜ……こんなことに……)  首筋に沿う吐息を感じなから、男はヒュトロダエウスの肩を柔く押し返そうとした。  アーモロートの建造物の多くは、天高く築かれた壮麗な塔で、この創造物管理局も例外ではない。しかし永い時間をかけて積み重ねられてきた、多種多様なイデアを保管するには、少々狭いと言わざるを得ない。  その空間問題を一体どうしたのか?  地下に建て増していったのだ。  つまり、この場所は関係者以外立ち入り禁止区域である特別階のひとつで——特に地下深部に関しては局長しか立ち入ることが許されなかった。  ヒュトロダエウスいわく、現在よりも登録基準がゆるかった時代に持ち込まれた物や、一度は登録されたが後に危険性が発覚した物、あるいは、極めて有用ではあるが影響力が強すぎるが故、運用に際して慎重な判断が必要とされる物等々が、この地下に数多く眠っているためだという。  さてそれを聞いたヒュトロダエウスの友人は当然、深部を見学してみたいと請う。その男は自他共に認める好奇心の塊で、もちろんヒュトロダエウスもそれを見越していて教えたのだ。 「具現化しなくてもいい。ただ、どんなイデアがあるか知りたいんだ。そこから新たな閃きが生まれるかもしれない」 「ワタシと一緒に見学する分には構わないよ。……先代局長も、当代のラハブレアに請われて案内したらしいからね」 「師匠ラハブレアが⁉︎ それはますます好奇心をそそられる」 「ああでも、彼——エメトセルクには内緒だよ。こんなことをしたって知られたら、いったいどんな小言を聞くはめになることか」 「同感だ。僕だって彼の説教を受けたくはない。このことは僕らの秘密だ」  その返答を受けてヒュトロダエウスの微笑がよくよく深まったが、罠にはめられたとも知らない彼は無邪気に喜んでいた。  ヒュトロダエウスが思うのは彼を含めた友人ふたりの関係である。  エメトセルクはヒュトロダエウスの旧知の友だが、根が真面目なので存外奥手だというのが今までの交友関係からの総評だ。なんなら自分の想いに鈍感でさえある。……いや。気づかないふりをしているのだ。  今、隣で興奮を隠しきれない足取りで、階段を下る彼は、間違いなくエメトセルクに想いを寄せているというのに、自分の気持ちに蓋をするのに必死でまったく気づいていない。それとなく教えてやっても、否定するばかりだ。 (ワタシが奪ってしまっても、キミはその調子なのかな)  もちろん本気ではない。だが彼が誰のものでもないのは事実だ。 (彼のためにも背中を押すくらいなら許されそうだ。それに何より——)  ——面白そうだしね。  いつだって行動を起こすのはそんな理由だ。  局長の座についているのも、あらゆるイデアを視て楽しみたいからに他ならないのだから。  かくして男は好奇心に殺された。 「んっ……ぁ……」  ヒュトロダエウスの指先に下肢の中心をまさぐられ、じんとした痺れが身体を走る。 「はーっ、はーっ……ひっ……」  つつ、つつ、と何度も下着越しに爪の先がなぞりあげる。それも触れるか触れないか、そんなゆるやかな刺激だというのに、爪がそこを掻くたびに身体が跳ね、全身の肌が粟立った。まるで神経がむき出しになってしまったかのように。  静寂と暗闇に感覚を塞がれているからだろうか。  ヒュトロダエウスは指先一本でしか触れていないというのに、全神経を支配されてしまったかのように、逆らうことができなかった。 「もう少し……嗅ごうか?」  ヒュトロダエウスの手の中に、桃色の液体に満たされた小瓶が現れる。  かつてエーテルの感受性を高める幻薬として用いられたが、御禁制となった幽香のイデア。正しく使えば、想像した事象、約束事の確実性を保ち、創造魔法を行使する際の雑念を排除するのに役立つ。  用量を超過すると、正常な思考力を奪い、幻覚が生じるが、問題となったのはそちらではなく副作用のほうだ。より環境エーテルと一体になれるよう、肉体の緊張を和らげるため、副交感神経を優位にさせる効能があったのだが、そのせいで欲情を起こしてしまうのだ。  ——だからといって善き市民たちが、副作用を目当てに乱用したという記録があるわけではない。むしろその逆である。知を重んじる民は、幻薬によって誘発された欲望を恥じて、自ら封印してしまったに過ぎない。 「やめ……っ」  小瓶の蓋が開くと、甘ったるい芳香がふわりと漏れ出る。それをヒュトロダエウスは自身の黒い袖にふりかけ、男の鼻と口を覆った。  すう、はあ、と、ひと呼吸ごとに仮面の奥の瞳がうつろにとろけて、身体が弛緩し、寄りかかった壁をずり落ちてゆく。  ヒュトロダエウスは倒れそうになった彼を支えてやりがら、さらに長く芳香を吸い込ませ続けた。 「ぅ……、ぅ……」  そろそろ幻覚が視える頃合いだ。  ヒュトロダエウスは彼の硬くなった先端に指先を置いた。 「ここを、こうしてほしい、と」  先走りで濡れた布越しにぬるぬる円を描く。  熱くそそり立ったそこが、ひくひくっと痙攣するように震えて、半開きになった口元から唾液があふれた。 「《《彼》》にねだってみせたら、きっと喜ぶよ」 「なん、そこでハ、……エメトセルクが……っ」 「フフ……ワタシはなにも《《ハーデス》》だなんて、言っていないけれど」  先端をとんとん、と指の腹で叩きながら、ヒュトロダエウスは含み笑いを浮かべた。溢れた露がねばついて糸を引いていた。 「ッぁ……それ、は……それ以外に……」 「でも、……反応したね。想像、したんじゃないのかい?」  男が「違う」と否定すると、ヒュトロダエウスは「ううん、まだ足りないのかな」と言って袖口に薫香を追加した。 「こ、これ以上は、おかしくなる……っ」 「大丈夫。少しエーテルが乱れるくらいで、依存性はないよ」  さあ、《《彼》》のことを想像してごらん。  ヒュトロダエウスは、顔を背けた友の呼吸器をふたたび袖で覆った。しばらく息を止めて抵抗していたようだったが、長続きするわけもなく、湿った温かな呼気が布越しに伝わった。  甘ったるい芳香が男の鼻腔を通り、脳髄を侵し、そしてまもなく、幻影が映し出されることだろう。  ヒュトロダエウスは顔を覆った。  その手が離れた時、白き仮面は、赤き仮面へと変貌していた。誰のものかなど説明するまでもないだろう。  そして次に自らの喉を掴んだ。口元が引き締まる。 「あー……こんなものかな」  声というものは自分と他人で聞こえ方が違うようだが、エーテル波形を《《視る》》のは彼にとって容易いことだった。発声しながら声帯を変化させれば、ヒュトロダエウスはもはやハーデスだ。 「ぁ……ハー……デス……」 「《《ここにいる》》」  もはや意味をなさなくなった下着の中にヒュトロダエウスの手が侵入し、とめどなく溢れ続ける雫を指先が掬い取る。そのわずかだが直接的な刺激に、男はヒッと声にもならぬ悲鳴を上げて身体を硬直させた。たったそれだけで絶頂に至りかけたらしい。充血した性器が快感を追ってむなしく跳ねたが、すでにかの手はローブの下から抜け出して、濡れ光る指先が、男の目の前に差し出される。 「《《私をその気にさせてみせろ》》」  実際のところエメトセルクはこんなことを言わないだろう。彼は紳士的だ。けれど快楽を追求する上では、必ずしもそれが正解とは限らないことをヒュトロダエウスは感覚的に知っていた。否、視ればわかるのだ。本質を視ることにかけて彼の右に出る者はいない。  差し出された指に、おそるおそる舌が伸ばされた。自らの分泌物に触れて、びくっと一瞬離れたが、しかしすぐに根元から先端にかけて舐めとってみせた。 「《《それだけか?》》」  ヒュトロダエウスは友の口調を真似ながら、指先で彼の下唇を叩いた。 (こんなことをしたって知られたら、怒られるかな)  などと思いながらも罪悪感はさほど無い。なぜなら彼らの関係は成立していない、自覚も否定している。至って真面目な《《エメトセルク》》は、別の観点からヒュトロダエウスを糾弾するだろう。友に無体を働くとは何事か、と。そしてヒュトロダエウスはそれに対してこう返すだろう。彼の望みを叶えただけだ、と。 「は……ん、む……」  指先が唇に食まれ、湿った吐息で爪が曇った。  ヒュトロダエウスがいつもの微笑を湛えながら頷くと、舌が巻きつき咥内にいざなう。唇と舌で咀嚼し味わうように吸われて、くちゅ、と泡が潰れる音がした。  しばらくされるがままに任せていたが、羞恥心からか一向に先へ進まないので、ヒュトロダエウスは彼の頭を押さえつけ、指をぐっと押し込んだ。 「っんぐ……!」 「《《お前ならもっと上手くできるはずだ》》」  根元まで差し込んだ指をゆっくりと出し入れすると、ふー、ふー、と荒い鼻息がかかった。濡れた指はそれに冷まされては、咥内でまた温まった。  口蓋をくすぐったり、舌の裏側を引っ掻いてやると、うめき声にみせかけた嬌声が喉奥から漏れはじめる。 「っ……ん、ハ、デ…………ヒュ、トロ……やめ……」 「おや、驚いた。まだ正気を保っているのかい」  なんて精神力だ。ヒュトロダエウスは思わず口調を素に戻してしまった。称賛の意と同時に、優れたイデアを視たときのような情熱がわきあがってくる。  彼の正気はどこまで保つのだろうか?  どこまでやったら——壊せるのだろうか?  好奇心にかけては彼ほどとはいかなくとも、ヒュトロダエウスとて健全なる市民の一員に他ならない。知らないもの、わからないものは、大好きだ。 「……キミはいつもワタシの予想を超えてくれるね」  ぞくぞくする。体の芯が熱くなって、欲望の正体が久しぶりに頭をもたげた。 「そんなつもりはなかったんだけれど」  ヒュトロダエウスは唇から指を引き抜いた。唾液をまとった爪を舐めてから、彼の脱力した顎を持ち上げる。ほとんどキスするほどの距離まで近づいて、かすかな——しかし、理性の炎が灯る眼を覗きこんだ。すべてを見通すまなざしが、彼のエーテルを隅々まで観察する。それは、それだけで全身を侵されるような錯覚さえ覚えるものだった。  感情はエーテルに影響する。ヒュトロダエウスに嘘は通用しない。例えば後ろめたさがあればエーテルは揺らぐし、快感を得ているときはとろみを帯びるようだ。  ヒュトロダエウスは、中身が半分ほどに減った小瓶を顕現させ、逆さまに傾けた。甘やかな香りが立ち、滴るほどしみこませた袖で自らの鼻先を押さえる。そのまま、ひと呼吸、ふた呼吸——。 「ぅ……、はあ……これは……効くね…………」  《《眼》》が制御できない。あらゆるエーテルの色が混ざり合い、視界が極彩色に染まって、世界が揺れる。もともと優れた感受性を持つヒュトロダエウスにとって、この幻薬はむしろ毒に近い。唯一目の前の魂だけが道標だ。  彼に触れて、形を確かめて、物質的な視界を確立する。  滑らかなローブ越しに湿り気と硬い感触を見つけて、フフ、と小さく笑う。 「、ぁあ……っ!」  急所を握られる、その明確な快感に彼は震えた。がくがくとわらう膝は力の入れ方を忘れ、ヒュトロダエウスの導く力のまま、床に伏せ、尻を上げ、獣のような姿になった。その上から覆いかぶさる影を見て、男ははじめて《《冥王》》を幻視した。  だがその口元は、欲に濡れた悪魔の眼とは対照的に、天使のように柔和な笑みを浮かべている。  急所をつかむ手は硬度をたしかめるような動きでやわやわと握るが、幻薬と巧みな責苦でじっくりと高められた身体は、それだけでたまらない刺激となる。身をよじらせ逃れようと前に手を伸ばせば、その細身のどこにそんな力が隠されていたというのか、ヒュトロダエウスの片腕にたやすく引き寄せられる。あるいは、自分の思う以上に力が入らないのだ。 「こら、だめだろう?」 「ンーっ、っ……!」  甘ったるい匂いのしみついた袖が呼吸器を塞ぐ。  同時に、無防備な臀部へ硬い杭が突き立てられた。布越しだというのに熱さえ感じられた。息を吸うたび脳が痺れて、意識がどこかに堕ちていく。 「——っ、はーっ……」  男はヒュトロダエウスの腕にしがみつき、無意識のうちに幻香をむさぼっていた。  腰を揺らせば、握られた奥で粘着質な音をたてながら性器が滑った。より強い刺激を求めて動きが速まると、ぱん、ぱん、と、背後の男にぶつかって、さながら擬似的な交尾のようだが、そんなことも意に介さないほど夢中だった。 「気持ちよすぎて、何も考えられないかい?」  ヒュトロダエウスの下の身体が跳ねた。  へこへこと小刻みな動きを繰り返していた腰が、余韻を残しながら止まる。強靭な意志の賜物だ。  しかし手に伝わる脈打ちはごまかせなかった。失った快感を求めて、ヒクン、ヒクン、と名残惜しんでいる。なだめるように撫でてやれば、「ひっ」と詰まった声が上がって、腹につくほど反り返る。 「ぁ……ぁ……ヒュトロ、ダエウス……」  制止か、懇願か。正気か、狂気か。 「《《ハーデス》》……だろう?」  背後からささやく声は彼らの友人そのものだ。  開きっぱなしの唇に指先が差し込まれると、男はほとんど条件反射的にしゃぶった。媚びるように、愛しむように。腰がほんの僅かずつ揺れはじめるが、ヒュトロダエウスはそれを許さなかった。 「《《私の名を呼べ》》」 「っ……ハ、……デス」  まだ理性は残っている。  しかし偽りでも口に出し続ければ、脳は錯覚するものだ。 「……《《いい子だ》》」  目の前の煌めきがとろりと溶けた。 「ンッ、ふ……んっぅぅ……ッ」  ハーデス、もといヒュトロダエウスは、創造された椅子に座り、彼の頭を股座に埋めさせていた。  彼はさきほど喉奥に出された子種をどうにか飲み込んで、あふれた分を舐め上げている。  その様はまさしく奉仕に他ならない。懸命に舐めしゃぶれば、ハーデス……もといヒュトロダエウスの手が髪を撫で、褒美とばかりに足先がよだれを垂らす性器をもてあそぶ。  ヒュトロダエウスの趣味というわけではない。エーテルを読んだ結果がこれだ。強いて言うなら、今モノを舐めている彼の趣味だろう。もっとも人間とは潜在的に支配を求めるのかもしれない。 「ん……《《もういい》》」 「っは……っは、……ハーデス……?」  とろんと見上げる目。  その目を見た誰もが、彼はもはや理性を失ったと判ずるだろう。しかし彼はいまだ《《ハーデス》》を《《ヒュトロダエウス》》だと認識していた。かろうじて……本当に薄皮一枚のところで最後の砦が崩れていない証拠だ。だがこれ以上は進めない。ヒュトロダエウスの目的はあくまで彼の背中を押すことなのだ。友情は黄金よりも重い。  でも少しだけ残念だなあ、と、ヒュトロダエウスは椅子から立ち上がり彼を押し倒した。 「《《私が出してもいいと言うまで、出すな》》」  つー、と裏筋をなぞりながら《《命令》》する。 「ぁ……そ、んな、無理だ……っ」  今にも決壊しそうだというのに。  だがヒュトロダエウスの手は無情だった。 「あっ、あっ、あっ、ハー、っデス……ハーデス……っ!」  どろどろに濡れた性器をヒュトロダエウスの手が容赦なく扱き上げる。  一度も吐精を許されず、腫れ上がり敏感になった先端から雁首にかけて指の輪が何度も往復する。 「イくっ、い、いく……いく……っ」  ヒュトロダエウスの腕に爪が立つ。足の指がぴんとはりつめる。陰嚢がきゅうと持ち上がって——。 「な、んで、んっ、はっ……っ」  男は自らの指で根元を塞いでいた。  身体の自由がきかない。まるで自分のものではないかのように、しかし受ける苦痛と快感はまぎれもなく自分のものだった。  ヒュトロダエウスはそれを見て満足そうに頷いた。 「さて……そろそろ勤労の時間だ」 「ぁ、はぁ、ぁ、ぁっ……」  絶頂が遠ざかってからようやく動くようになった手で、必死に自分を慰める彼を見下ろしながら、ヒュトロダエウスは至って普段通りの調子で告げた。 「ぁっ……あ、あぁ……っぁ…‼︎」  命令を従順に遂行する脳信号によって自由を奪われ、ビクン、ビクン、とむなしく身体が跳ねる。最後の一押しを、あとほんの少しの刺激を与えることが叶わない。 「どうしたんだい。……そんな物欲しそうな顔をして」  見下ろす仮面はもう白く、声帯は柔和な彼そのものだ。  悪魔とはこんな姿をしているに違いない。 「続きは《《ハーデス》》にしてもらうといいよ」  あるいは……。いや、いずれにせよ選ぶのは彼だ。  ヒュトロダエウスが手を振りかざすと、蹲って震える彼の身に、乱れのない装束が創造された。  下腹部にあたる部分が、早くも濡れてしまったが、黒地が幸いして目立たなかったので、このままにしておいて構わないだろう。何度見繕ったところで同じことになるだけだ。限界まで昂らされた性器は、今も脈打ちながら粘液をとめどなく伝わせているのだから。  床に打ち捨てられていた仮面を拾い上げ、着けてやるついでに、ヒュトロダエウスの掌が男の目を覆い隠した。  このまま放置しておくことに罪悪感を覚えたからではない。目的を達成したからだ。 「う、っ……」 「しばらく、おやすみ」  意識が闇へ落ちた。  次に目覚めたとき、すでに日は暮れかけてた。  そよ風が火照った体を撫でつけて、そこが外であることがわかった。どれくらい眠っていたのか。しかし燻った火は確かに残っていて、もう萎えているというのにひどく疼いた。  紛らわそうと辺りを見渡せば、カピトル議事堂が目に入った。その奥から人影が、夕映えを背に受けながら、足早にこちらへ歩いてくる。 「何があった?」  エーテルを視る目は、ヒュトロダエウスだけの専売特許ではない。  当代のエメトセルクには、友のエーテルの乱れがはっきりと視えていた。 「…………ハー、デス……」  その名を口にした時、燻っていた火が、カッと燃え盛った。息苦しくなり、視界がぼやけ、萎れていたものに血流が集中した。あの眠らされる直前に、肉体の時が巻き戻っていくかのようだった。 「どうした」 「ンっ……!」  肩に触れた、それだけの刺激で全身に電流が走った。  その尋常ではない様子に、ハーデスは彼のフードを脱がせた。仮面に隠された頬も首筋も上気して汗ばんでいる。半開きになった口からは荒い息遣いが吐かれている。熱を測ろうと頬へ手を伸ばすと、ハーデス、と何かを請うような声と共に指が食まれた。 「……ッ落ち着け」  咄嗟に引き抜かれた指を惜しむように舌が追った。  ともかくこの場所では落ち着いて診ることもできないが、その辺の奴に診せるわけにもいかない。自室まで連れて行き、ヒュトロダエウスを呼ぶのがいいだろう。  ハーデスが彼に肩を貸すと、どうにかよろよろと立ち上がったが、絶頂を許されないままの性器が擦れるたび、堪えられないと頭を擦り付ける。 「ハーデス、おねがいだ、ハーデス……っう」  道中はこれをずっとうわごとのように繰り返していた。  出させてくれ、出してもいいと言ってくれ、聞き取れたのはそんなところだ。ハーデスにはその意味は理解できても、理由がわからなかった。それに、ぐずぐずにとろけて乱れたエーテルは、ただ欲情しているというにはあまりに異様だ。  創造魔法でタチの悪い失敗をしたのか、正体不明の病によるものなのか。ともかく下手にどうにかするべきではないとハーデスは判断した。 「少し待っていろ。ヒュトロダエウスを呼ぶ」  ぜえぜえと息を吐く男を自室の寝台に横たえて、ハーデスがローブを翻す。 「ハーデス……ッ!」  翻った裾を引っ張られて、ハーデスが立ち止まる。  男は寝台からずり落ち、這いつくばりながら足元まで辿った。懇願するように見上げてくる男に、ハーデスは跪いた。 「大人しくしていろ。すぐに戻る」  いつものぶっきらぼうさが鳴りを潜めた、穏やかで優しい声色でハーデスは言った。  だが男が求めているのはそんなものではないのだ。身体の内に燃え盛る欲望の炎に焼き焦がされて気が狂いそうなのだ。そしてそのようにしたのは他ならぬヒュトロダエウスだ。この仕業が彼によるものだと訴えたら、信じるだろうか。  裾を掴む手の力がゆるゆると抜けていった。  彼のヒュトロダエウスとの友情を壊すのか。そもそも禁忌を犯すことを望んだのは自分だというのに。因果の責任は自らが背負わなくてはならない。  そのどれもが、彼には知られたくない、という言い訳でしかないとしても。 「……ハーデス、」  か細い声をよく聞こうと耳元を寄せてきた、彼の耳元で、男はささやいた。 「好き、なんだ……」  息をのむ音がした。 「お前は……今、正しい判断ができない状態だ」  慎重に、選ぶように、発せられた言葉だったが、それは限界の淵に立つ男には死刑宣告も同義だった。  ハーデスを引き留めていた力が完全に抜けて、魂が抜けたように項垂れる。 「は、はは、……ははは」  ひとり残された部屋に虚ろな笑い声と、彼を呼ぶ声が響いた。  ヒュトロダエウス、と。 「……正気に返った時、もう一度言え」  扉越しに呟いたハーデスの言葉が彼に届くことはなかった。 (まさか、本当に手を出さなかったなんて。いやはや、実にキミらしいというか、なんというか)  ここまでお膳立てしても、据え膳食わぬ男とは。堅物にもほどがあると、ヒュトロダエウスは評した。だが平常ではない彼に手を出さないというのは半ば予想通りのことでもあった。実に紳士的で結構なことだ。それが本当に彼のためになったかどうかはさておき。  しかし血相を変えて創造物管理局に飛び込んできた彼に免じて、もう一肌脱ごうじゃないか、と、ヒュトロダエウスは笑みを浮かべた。 「ぁ、ああ、っ……」  ハーデスの寝台の上で彼は引き攣るような声をあげながら悶えていた。シーツに隠されて全貌は見えないが、おそらく自分を慰め続けているのだろう。幻薬の効果で《《出すな》》という命令を決して破れないというのに。  その痴態を見たハーデスは、咄嗟に顔を背けた。 「お前の目なら何かわかるか?」 「ああ……うん。治すことはできるよ」  ヒュトロダエウスはいつもの微笑を浮かべながら言った。 「何か必要なものがあるなら言え。すぐに持ってくる」 「何も必要ないよ。……キミが彼の望むことをしてあげればいい」 「あっ、あああ……っ!」  また、欲を吐き出すことのできなかった叫びが室内に響いた。 「キミが迷っている間も、彼は苦しむよ」  逡巡するハーデスにそう告げる。  非常に頑なでありながら、揺れ動く彼の複雑な心情を、ヒュトロダエウスはよく知っている。  人の尊厳を重視するあまり、彼に対して行為を避ける気持ち、もしくは自分の欲望が抑えられないことへの恐れ。 「ワタシがしてもいいなら、そうするけれど」  このままではあまりにも彼が憐れだ。  発破をかけるつもりの助け舟だったが、ハーデスは思惑とは裏腹に「お前にできるならそれがいい。任せる」と頷いた。 (ああ、これは信頼の証か)  ヒュトロダエウスは、ハーデスの耳に唇を寄せた。 「ねえ、ハーデス。ひとついいかな」 「……なんだ?」 「ワタシは、彼のことが好きなんだ」  ハーデスの目が驚愕に見開かれた。 「……なぜそんな嘘をつく?」  今度はヒュトロダエウスが驚く番だった。 「どれだけ付き合いが長いと思っている? その程度、見通せないと思ったか?」 「……参ったな」  恋愛感情がないのは事実だ。あるのはただ友情と好奇心だけ。それでも彼に対して治療という名の何をするかを考えれば、ハーデス自身が行うだろう、と思っていた。しかしヒュトロダエウスの予想以上に、彼は自分自身の欲望を恐れているらしい。 「キミがいいなら、ワタシは構わないよ」  結局、ハーデスは立ち去った。しかし少し意識を集中させれば、扉のすぐ側で待っている気配が感じられた。きっと腕を組み、いつものようにしかめ面をしながら壁に寄りかかっているのだろう。何も自らを拷問にかけるような真似をしなくてもいいだろうに。逃げてしまった自分への戒めだとでも言うのだろうか。  まったく、仕方ないな。と、ヒュトロダエウスは寝台に近づいた。  想い人の匂いに包まれながら、果てのない快感に喘ぐ友人のため、赤き仮面と持ち主の声帯を創造する。 「ぁ、……ぅ……」  冥界に愛されし男に扮したヒュトロダエウスは、彼と同じように指を鳴らしてみせた。  うずくまる男の仮面とローブがきらめくエーテルに分解されたが、彼は虚ろな目で自慰に耽るばかりだった。ヒュトロダエウスが濡れたシーツに膝を乗せ、彼に覆いかぶさってようやく、その存在に気づいたようだ。 「出したい……ぃ……イ、かせてくれ……」  ヒクヒクと絶え間なく痙攣する彼のものは、むしろ出せないまま何度も達しているかのようだ。その証拠に、彼のエーテルは快感が過ぎたる苦痛ではなく恍惚にとろけている。 「……なるほど」  彼の指が何本も、後孔に突き刺さっていた。  排泄器のほうから前立腺を刺激し、射精しないまま絶頂することを試したらしい。  たしかにヒュトロダエウスの下した命令は《《出すな》》というもので、空イキするなとは言っていない。ただし残念ながら、盛った熱をどうにかすることはできなかったようだ。命令を守るのは幻薬の効能だが、その内容は想像した本人によって決まり、固定される。だからこそ《《出すな》》という抽象的な指令が、射精を妨害するのだ。そして、彼はその言葉に、性的欲求を解消できない、という要素を付け足してしまったらしい。 「《《出していいぞ》》」  頬を撫でて、呪縛を解き放つ。 「ぁ、ぁ……ぁぁぁ……っ」  とろ、とろ……と先端から白濁液が溢れ出す。  甘く勢いのない射精は長く続いた。それをヒュトロダエウスは助けるでもなく、ただじっと見下ろしていた。必要以上に手を触れないのは、ハーデスの信頼に応えたからだ。 「はぁ、はぁ、……っ、もっと、足りな……っ」 「……ワタシは、キミの愛しい人ではないよ」  すがりついてくる彼に対し、ヒュトロダエウスは変身を解いてみせた。 「今キミの目の前にいるのは、誰かな」  呪縛が解けた今、彼に求められているのは正真正銘の愛であり、本物の《《ハーデス》》だ。  幻想でも、快感でもなく、ヒュトロダエウスでもない。  そのはずだった。 「ヒュトロ、ダエウス……」  恍惚とした表情で彼は告げた。  その目を視て、ヒュトロダエウスはすべて理解した。  ——もう、堕ちている。  あれほどやっても崩れなかった最後の一線。それを断ち切れるのはハーデスを置いて他にはいない。  彼は、ハーデスに拒絶されたのだ。  暗い達成感と、冷めた喜びに、一過性の熱が燃え上がった。 「ぁ、あ、ああああ……っ!」  柔らかく解された中を突きながら、ヒュトロダエウスはため息をついた。 (理解してしまった物に、もう興味はないのになあ)  絶え間ない嬌声は壁の向こうにも響き渡る大きさで、朝まで続いていた。